zeraniumのブログ
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2012年12月 4日 (火)
日本人よ、「枠」を外しましょう
日月神示 黄金の巻 第21帖(532)
<宇宙訳>
現在、日本国民の魂が曇っているのがよくわかります。
今まで信じていたものの「枠」を外してみましょう。それはあなた方自身で創った「枠」なのです。「枠」にはまってしまうと身動きができず、どんどん自分を苦しめるものになります。
『枠』を外しましょう。
「枠」とは、今まで正しいと思い込んでいた常識や社会的仕組みのことです。
本来、あなた方は自分で自分をコントロールすることができます。自分自身で、自分を調整し、コントロールできるようになりましょう。
あなた方の中に宇宙が存在します。
それをあなた方の意識にたとえると、顕在意識を通してこの3次元であなたが信じている世界のことであり、あなたの潜在意識こそが宇宙なのです。
3次元の世界だけで、あるいは宇宙の世界だけでミロクの世につながることはできません。また3次元的なことや、宇宙的なことを別々に行なう中にもミロクの世はありません。つまり、3次元的世界と宇宙的世界観を融合させた新しい世界にこそ、ミロクの世があるのです。
すべての多様性と、あなた方が感じている善悪の観念、つまり、「善い」「悪い」「正しい」「間違っている」といったすべての事柄を統合し、「愛」で満たしている状態こそが、「宇宙の愛」そのものである創造主に結びつくのです。
あなた方のこれからの世界は、「宇宙の愛」である創造主に結びつくことが望ましいのです。そうすることで、「創造者」であるあなた方本来が持つ愛の魂の力で進んでいくことができます。
あなた方が口に入れるものには、すべてエネルギーが宿っています。
あなた方はエネルギーを感じることができることを思い出し、その感覚、感性を磨きましょう。
あなたの「創造者」としての本来の側面を前面に押し出して生きてください。
そうすれば、ミロクの世へとつながる道が開けていくでしょう。
あなた方を祝福します。
日月神示 秋の巻 第16帖(757)
<宇宙訳>
ミロクの世、つまり新しい世界にするためには「統一」が必要と言われていますが、「統一」とは、赤と白を混ぜて一色にすることではないのです。そこには赤もあれば黄色もあり、青もあるということです。
みんながそれぞれの個性や役割を持ち合わせながら、一つに括(くく)り、まとまるところに「統一」というものがあります。くくると言っても縛るという意味ではありません。それは磁石が常に北に向くように、すべてが一点に向かうということなのです。これを「公平」といい、「平等」というのです。
平等という言葉が間違って使われると、一色でなければいけないという思考になります。本質は一色であってはならないのです。
日月神示 光の巻 第3帖
<宇宙訳>
現在の政治は、一部の権力者のエゴによる「貪(むさぼ)る政治」になっています。
それは互いに競争によって勝ち取っていく、つまり男性社会です。しかし今後目指すべきは、宇宙の法則に則(のっと)り、宇宙の叡智を受けて行なう政治です。
そこでは「宇宙の愛」を基調として運営されます。
「宇宙の愛」とは、「宇宙的規模で感じられる愛」のことです。
そのためには、女神(めがみ)性の目覚めが必要になります。
女神性とは神聖なる部分であり、宇宙的な規模の愛にあふれる女神性には、「ゆだねる」という性質があります。
宇宙にゆだねることのできる女性は、母体となる際に「宇宙規模の愛」を感じることができるので、「宇宙規模の包容力」が生まれます。つまり、宇宙に委ねることができて初めて、宇宙の叡智を降ろすことが可能になるのです。
宇宙に委ねることで、創造主の波動と共鳴することができ、その考えがインスピレーションとしてわかるようになってきます。女神性に目覚めると、創造主からのメッセージが自然に口をついて出てくるようになるので、それを得るために場の浄化や儀式などを行なう必要はなくなります。それはあなたの中に創造主が存在しているかのような状態なのです。
そして女神(めがみ)性は、女性だけでなく、男性の中にも存在します。
男性が宇宙に委ねる時にも、この女神(めがみ)性の目醒めが必要になります。男性が自分の脳の思考に頼る時代は、終焉を迎えました。
今や人間の脳をアンテナとして活用する時代が到来したのです。
そんな女神性に目醒めた男女が集まり、「輪」となり「和」となることでそこにエネルギーが生まれ、そのエネルギーは徐々に広がり循環していき、回転するようになります。
そのエネルギーはやがて螺旋状にスパイラルアップし、その「環」の中心には、宇宙エネルギーが生まれるようになるでしょう。あなた方はこの宇宙エネルギーや叡智を用いて政治を行なっていくのです。
現在のような、エゴや私利私欲に動かされているような政治をしていては、この惑星を平和へと導くことは困難でしょう。「宇宙の法則」から見れば、それは当然の結果です。
宇宙は驚くほど豊かで、宇宙には溢れんばかりの豊かさがあります。
すべての存在にいき渡ってあり余る十分な豊かさがあるのです。
この惑星に住む人々がそれに気づき、行動を起こすなら、人々の望むどんなことも可能になるでしょう。この宇宙の豊かさに気づき、あなた方がお互いに分け合う行動をとる時、それこそが一人ひとりに豊かさを招くことになり、この日本もどんどん栄えていくきっかけとなるでしょう。
本来、日本が持っていた調和を取り戻すことができれば、「宇宙の法則」に則った生活をすることができます。豊かな宇宙のサポートを受けて、この地球という惑星がますます繁栄し、ミロクの世となっていくのです。
「宇宙の法則」をあなた方が知ると、それはいとも簡単な道理なのです。日月神示 黄金の巻 第10帖(521)
<宇宙訳>
もう「嘘をついて生きていくこと」は終わりました。
すべての「嘘」はこれまでの社会に、すべてのことに顕在化してきています。
あなた方も同じです。
自分に嘘をつかないようになさい。そして事実ではないことを、さも事実であるかのように伝えないことです。
目醒めた人々は、「嘘を見破る鏡」を持っています。
つまり目醒めると「鏡」が持てるのです。嘘を言った本人は誰も知らないと思っていても、鏡を通して見ている人々には、真実が見えているのです。
すべてのことにおいて、「嘘を言う」という心を捨ててしまいましょう。
そのように早く決心して心を入れ替えたほうが、あなた自身の天命を生きることができるのです。
世界中の目醒めた人々が、「真実を見通せる鏡」を持っています。
肉体を持つ人間は、限りなく成長し、意識を拡大させていきます。
ですからこれで完了ということはないのです。
あなた方が生きている3次元の世界は、「幻覚」の世界です。
しかし今、「幻覚」の世界は終焉を迎えようとしています。「幻覚」、「投影」の世が終了し、「真実」、「誠」の世の中となるのです。つまり、「善」、「悪」という二元性の世界が終了し、調和と統合の世界が始まります。
「アシュタール×ひふみ神示」 宇咲 愛著 ヒカルランド
抜粋
<宇宙訳>
現在、日本国民の魂が曇っているのがよくわかります。
今まで信じていたものの「枠」を外してみましょう。それはあなた方自身で創った「枠」なのです。「枠」にはまってしまうと身動きができず、どんどん自分を苦しめるものになります。
『枠』を外しましょう。
「枠」とは、今まで正しいと思い込んでいた常識や社会的仕組みのことです。
本来、あなた方は自分で自分をコントロールすることができます。自分自身で、自分を調整し、コントロールできるようになりましょう。
あなた方の中に宇宙が存在します。
それをあなた方の意識にたとえると、顕在意識を通してこの3次元であなたが信じている世界のことであり、あなたの潜在意識こそが宇宙なのです。
3次元の世界だけで、あるいは宇宙の世界だけでミロクの世につながることはできません。また3次元的なことや、宇宙的なことを別々に行なう中にもミロクの世はありません。つまり、3次元的世界と宇宙的世界観を融合させた新しい世界にこそ、ミロクの世があるのです。
すべての多様性と、あなた方が感じている善悪の観念、つまり、「善い」「悪い」「正しい」「間違っている」といったすべての事柄を統合し、「愛」で満たしている状態こそが、「宇宙の愛」そのものである創造主に結びつくのです。
あなた方のこれからの世界は、「宇宙の愛」である創造主に結びつくことが望ましいのです。そうすることで、「創造者」であるあなた方本来が持つ愛の魂の力で進んでいくことができます。
あなた方が口に入れるものには、すべてエネルギーが宿っています。
あなた方はエネルギーを感じることができることを思い出し、その感覚、感性を磨きましょう。
あなたの「創造者」としての本来の側面を前面に押し出して生きてください。
そうすれば、ミロクの世へとつながる道が開けていくでしょう。
あなた方を祝福します。
日月神示 秋の巻 第16帖(757)
<宇宙訳>
ミロクの世、つまり新しい世界にするためには「統一」が必要と言われていますが、「統一」とは、赤と白を混ぜて一色にすることではないのです。そこには赤もあれば黄色もあり、青もあるということです。
みんながそれぞれの個性や役割を持ち合わせながら、一つに括(くく)り、まとまるところに「統一」というものがあります。くくると言っても縛るという意味ではありません。それは磁石が常に北に向くように、すべてが一点に向かうということなのです。これを「公平」といい、「平等」というのです。
平等という言葉が間違って使われると、一色でなければいけないという思考になります。本質は一色であってはならないのです。
日月神示 光の巻 第3帖
<宇宙訳>
現在の政治は、一部の権力者のエゴによる「貪(むさぼ)る政治」になっています。
それは互いに競争によって勝ち取っていく、つまり男性社会です。しかし今後目指すべきは、宇宙の法則に則(のっと)り、宇宙の叡智を受けて行なう政治です。
そこでは「宇宙の愛」を基調として運営されます。
「宇宙の愛」とは、「宇宙的規模で感じられる愛」のことです。
そのためには、女神(めがみ)性の目覚めが必要になります。
女神性とは神聖なる部分であり、宇宙的な規模の愛にあふれる女神性には、「ゆだねる」という性質があります。
宇宙にゆだねることのできる女性は、母体となる際に「宇宙規模の愛」を感じることができるので、「宇宙規模の包容力」が生まれます。つまり、宇宙に委ねることができて初めて、宇宙の叡智を降ろすことが可能になるのです。
宇宙に委ねることで、創造主の波動と共鳴することができ、その考えがインスピレーションとしてわかるようになってきます。女神性に目覚めると、創造主からのメッセージが自然に口をついて出てくるようになるので、それを得るために場の浄化や儀式などを行なう必要はなくなります。それはあなたの中に創造主が存在しているかのような状態なのです。
そして女神(めがみ)性は、女性だけでなく、男性の中にも存在します。
男性が宇宙に委ねる時にも、この女神(めがみ)性の目醒めが必要になります。男性が自分の脳の思考に頼る時代は、終焉を迎えました。
今や人間の脳をアンテナとして活用する時代が到来したのです。
そんな女神性に目醒めた男女が集まり、「輪」となり「和」となることでそこにエネルギーが生まれ、そのエネルギーは徐々に広がり循環していき、回転するようになります。
そのエネルギーはやがて螺旋状にスパイラルアップし、その「環」の中心には、宇宙エネルギーが生まれるようになるでしょう。あなた方はこの宇宙エネルギーや叡智を用いて政治を行なっていくのです。
現在のような、エゴや私利私欲に動かされているような政治をしていては、この惑星を平和へと導くことは困難でしょう。「宇宙の法則」から見れば、それは当然の結果です。
宇宙は驚くほど豊かで、宇宙には溢れんばかりの豊かさがあります。
すべての存在にいき渡ってあり余る十分な豊かさがあるのです。
この惑星に住む人々がそれに気づき、行動を起こすなら、人々の望むどんなことも可能になるでしょう。この宇宙の豊かさに気づき、あなた方がお互いに分け合う行動をとる時、それこそが一人ひとりに豊かさを招くことになり、この日本もどんどん栄えていくきっかけとなるでしょう。
本来、日本が持っていた調和を取り戻すことができれば、「宇宙の法則」に則った生活をすることができます。豊かな宇宙のサポートを受けて、この地球という惑星がますます繁栄し、ミロクの世となっていくのです。
「宇宙の法則」をあなた方が知ると、それはいとも簡単な道理なのです。日月神示 黄金の巻 第10帖(521)
<宇宙訳>
もう「嘘をついて生きていくこと」は終わりました。
すべての「嘘」はこれまでの社会に、すべてのことに顕在化してきています。
あなた方も同じです。
自分に嘘をつかないようになさい。そして事実ではないことを、さも事実であるかのように伝えないことです。
目醒めた人々は、「嘘を見破る鏡」を持っています。
つまり目醒めると「鏡」が持てるのです。嘘を言った本人は誰も知らないと思っていても、鏡を通して見ている人々には、真実が見えているのです。
すべてのことにおいて、「嘘を言う」という心を捨ててしまいましょう。
そのように早く決心して心を入れ替えたほうが、あなた自身の天命を生きることができるのです。
世界中の目醒めた人々が、「真実を見通せる鏡」を持っています。
肉体を持つ人間は、限りなく成長し、意識を拡大させていきます。
ですからこれで完了ということはないのです。
あなた方が生きている3次元の世界は、「幻覚」の世界です。
しかし今、「幻覚」の世界は終焉を迎えようとしています。「幻覚」、「投影」の世が終了し、「真実」、「誠」の世の中となるのです。つまり、「善」、「悪」という二元性の世界が終了し、調和と統合の世界が始まります。
「アシュタール×ひふみ神示」 宇咲 愛著 ヒカルランド
抜粋
2012年12月 3日 (月)
人と違っていい、やりたいことを何でも始めよう
日本人とは「日本方言を話す人」のことである
日本人のルーツの少なくとも一つが、朝鮮半島にあることは否定できません。
特に天皇家のルーツは、間違いなく朝鮮半島にあるでしょう。天皇家の古い墳墓がその学術的価値にもかかわらず、未だにほとんど公開されていないのは、公開すれば皇室のルーツが明らかになってしまうからだと言われています。まあ、そこまで踏み込んだ議論をしなくても、日本古来の文化とされるものの多くが、大陸からの渡来人がもたらしたものに起源を発することは、歴史の授業でもふつうに教えられていることです。
ついでに言うと、人種的に「日本人」を定義するのは論外です。
いくら念入りに遺伝子を調べても、日本人はモンゴル人とまったく変らないし、もちろん韓国人や中国人ともそれほど変りはないでしょう。人種に注目した瞬間に、日本人というカテゴリーは存在しないことになってしまいます。そこで注目すべきなのが、言語なのです。
第1章で述べたように、ちょっとした地理的障壁があるだけで方言は生まれます。
日本列島の中にも、数え切れないほどの方言が存在しています。そして島国である日本は、海によって他国と隔てられていますが、そのことは、日本列島内にある山河や小さな海峡といった障害とは比べものにならないほど大きいものです。したがって、日本列島で話されている方言=日本語こそが、日本人を定義づけるためのもっとも明確な指標となるのです。日本人は、まず何よりも「日本方言を話す人と定義づけられるべきなのです。
日本人とは「日本で義務教育を受けた人」のことである
日本人を定義づけるもう一つの指標は、教育です。
私の知人のラスベガス生まれのアメリカ人は、両親はどちらもアメリカ人ですが、幼いころから日本で育ち、日本の義務教育を受けました。その彼女のものの考え方は、「日本人の普通の女の子」そのものです。英語はネイティブに話しますが、「アメリカ人っぽい」と感じさせられる要素は容姿を除けばあまりありません。
先に述べましたが、義務教育は愛国心の洗脳のために使われていると説明しました。
まだ小さい子どもの脳に与えられる義務教育は、愛国心だけでなく、共同体の価値感を非常に効率的に刷り込むことが可能です。それだけでなく日本の義務教育を受けた子どもは、さらに日本のマスメディアにも幼少期から接しているはずです。ですから義務教育とメディアという、「国民」意識を育てる二つのシステムに囲まれて育っているのです。たとえ日本国民という概念が幻想だとしても、幼い頃から一定の刷り込みを受けて育った人々は、共通の精神構造を持つようになります。
つまり日本の義務教育を受けた人々は、一つのカテゴリーとしてほかとは区別してもいいでしょう。日本人を意義づける第二の要素は、「日本で義務教育を受けた人」ということになります。したがってもしも「日本人をつくっているのは誰か」と問うならば、答えは「学習指導要領など、義務教育のカリキュラムをつくっている人」となるでしょう。つまりは文部科学省の役人です。それと日本のマスメディアで、とくにテレビの番組編成を考えているテレビ局幹部も加わっています。しかしながら彼らにはその意識はないでしょう。そしてその背後には、彼らをコントロールしている大手広告代理店もいます。
本書の冒頭で述べたように、大震災でライフラインが寸断されても、暴動はおろかスーパーの棚からパンを取ってくることさえ出来ない日本人をつくっているのも、文科省が考案したカリキュラムというわけです。そう考えると、近年、授業中に子どもたちが教師の言うことを聞かず、勝手な行動をとる傾向を、「授業崩壊」などといって大げさに問題にして騒ぎ立てているのもうなずけます。つまり、自分だけの意思で勝手に動かない、上の人の指示には必ず従う、周囲に迷惑をかけない・・・といった、大人しい日本人の育成にこれまでずっと成功してきた実績からすると、勝手に動き回る子どもが多数派になってしまうのは、管理する側にとっては一大事のはずです。それはおそらく、彼らが作り上げた義務教育の根幹を揺るがす事態なはずです。
それでも「日本」にこだわりますか?
つまり「日本人」とは、①日本方言を話す人、②日本で義務教育を受けた人、ということで、極限すればこの二つにすぎません。これを読んでいるあなたは、高確率で「日本人」でしょう。ではこの定義の上に立って、ほかの日本人に対してどれほど連帯感がわくでしょうか?同じ方言を話し、同じ教育を受けているわけですから、要するに同郷の同窓の友人のようなものです。たしかに親しみは湧くにしても、それだけのことではないでしょうか。それをいまどき、出身地や出身校に大人になってまでこだわるのはナンセンスです。
以上を踏まえた上で、改めて考えてみてほしいのですが、それでもあなたは「日本」あるいは「日本人」という枠組みにこだわりますか?
海外で事故が起きると、日本のニュースでは必ず真っ先に「日本人の安否」を伝えます。これは言外に「日本人意外の命はどうでもいい」と言っているも同然です。私に言わせれば、差別以外の何ものでもありません。2011年の8月にアメリカで、ハリケーン「アイリーン」が東海岸を襲い、甚大な被害をもたらしました。ところが日本ではほとんど報道されなかった。報道しても視聴率が取れないからでしょう。つい数ヶ月前に大震災に見舞われた日本人であるのに、なぜ同じく自然災害に見舞われている他国の状況に目を向けなかったのでしょうか。
国民国家に成りたての明治時代なら、「日本」にこだわることに意味はあったでしょう。
それはナショナリズム的な意味においてです。ですから列強国に金銀を持ち去られないように、日本国内に資本を蓄積するのは、日本人が豊かになるためには必要なことであったと思います。また敗戦後の焼け跡から立ち上がるために、「日本人」として団結することにも意味はあったでしょう。だからこそ吉田茂首相は、「日本は独立を取り戻した」と解釈できる「優しいウソ」をあえてついたのだとも考えられます。
しかしとうの昔に日本は、世界でももっとも豊かな国の一つになっています。
にもかかわらず、相変わらず、「日本」という枠の中で利害を考えているのは、あまりにも視野が狭すぎるのではないでしょうか。ネット右翼の若者たちのように、無力感を埋め合わせるために、「愛国」という杖にすがる人々がいるのは仕方がないことでしょう。人は誰しも、心が弱くなることがあるからです。しかし大人になっても、こうした幼稚な遊びに夢中になっているのは、やはりまずいと思うのです。
とにかく「やりたいことをやる」覚悟
それより何よりも、「日本」あるいは「日本人」という枠組みは、日本人のためにならないのです。つまり日本らしく、日本人らしくあることは、結局、これまでの儒教的なものの上に築かれた心理的支配構造を受け入れることであり、自分の可能性を狭めることであることは、本書において繰り返し見てきたとおりです。では、日本人はどう変ればいいのでしょうか? どうやって「日本」や「日本人」といった枠組みから飛び出せばいいのでしょうか?
具体的な方策については後に提案したいと思いますが、まずは、「とにかくやりたいことをやれ」のひと言に尽きます。日本の社会はあまりにも強い儒教洗脳と、よくできたパノプティコン(全体監視システム)社会であり、それがこれまで徹底的に個人の行動を縛り付けてきたと同時に、ピラミッド型の社会構造は、個人の可能性を阻害してきました。言ってみれば、日本人はずっと手足を縛られたまま生きてきたようなものなのです。
それでもなお、日本は世界有数の富裕国になったのですから、もしも日本人が自由に動けるようになれば、さらなる飛躍が可能になるはずなのです。だからまずは、「とにかくやりたいことをやれ」、そう呼びかけたいのです。「やりたいことをやれ」と言ったところで、元が大人しい日本人のこと、社会が無法状態になる心配はないでしょう。
これまで窮屈な社会秩序を維持してきた日本人は、その分、集団で統率の利いた行動をとることができた。明治の殖産興業にしても、戦後の「傾斜生産方式」にしても、政府が音頭をとり、各業界が強調して動くことによって成功したのです。しかしすでに、この方法は行き詰っています。なぜなら日本人は経済力は健在でありながら、すっかり活力を失ってしまっているではありませんか。豊かになった日本人は、もはや奴隷のまま喜んで働くことはできません。個人の可能性を潰され続けることにも、もう耐えられなくなっています。
それならば私たちは、一人ひとりがやりたいことをやる社会に一歩を踏み出すしかないのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
日本人のルーツの少なくとも一つが、朝鮮半島にあることは否定できません。
特に天皇家のルーツは、間違いなく朝鮮半島にあるでしょう。天皇家の古い墳墓がその学術的価値にもかかわらず、未だにほとんど公開されていないのは、公開すれば皇室のルーツが明らかになってしまうからだと言われています。まあ、そこまで踏み込んだ議論をしなくても、日本古来の文化とされるものの多くが、大陸からの渡来人がもたらしたものに起源を発することは、歴史の授業でもふつうに教えられていることです。
ついでに言うと、人種的に「日本人」を定義するのは論外です。
いくら念入りに遺伝子を調べても、日本人はモンゴル人とまったく変らないし、もちろん韓国人や中国人ともそれほど変りはないでしょう。人種に注目した瞬間に、日本人というカテゴリーは存在しないことになってしまいます。そこで注目すべきなのが、言語なのです。
第1章で述べたように、ちょっとした地理的障壁があるだけで方言は生まれます。
日本列島の中にも、数え切れないほどの方言が存在しています。そして島国である日本は、海によって他国と隔てられていますが、そのことは、日本列島内にある山河や小さな海峡といった障害とは比べものにならないほど大きいものです。したがって、日本列島で話されている方言=日本語こそが、日本人を定義づけるためのもっとも明確な指標となるのです。日本人は、まず何よりも「日本方言を話す人と定義づけられるべきなのです。
日本人とは「日本で義務教育を受けた人」のことである
日本人を定義づけるもう一つの指標は、教育です。
私の知人のラスベガス生まれのアメリカ人は、両親はどちらもアメリカ人ですが、幼いころから日本で育ち、日本の義務教育を受けました。その彼女のものの考え方は、「日本人の普通の女の子」そのものです。英語はネイティブに話しますが、「アメリカ人っぽい」と感じさせられる要素は容姿を除けばあまりありません。
先に述べましたが、義務教育は愛国心の洗脳のために使われていると説明しました。
まだ小さい子どもの脳に与えられる義務教育は、愛国心だけでなく、共同体の価値感を非常に効率的に刷り込むことが可能です。それだけでなく日本の義務教育を受けた子どもは、さらに日本のマスメディアにも幼少期から接しているはずです。ですから義務教育とメディアという、「国民」意識を育てる二つのシステムに囲まれて育っているのです。たとえ日本国民という概念が幻想だとしても、幼い頃から一定の刷り込みを受けて育った人々は、共通の精神構造を持つようになります。
つまり日本の義務教育を受けた人々は、一つのカテゴリーとしてほかとは区別してもいいでしょう。日本人を意義づける第二の要素は、「日本で義務教育を受けた人」ということになります。したがってもしも「日本人をつくっているのは誰か」と問うならば、答えは「学習指導要領など、義務教育のカリキュラムをつくっている人」となるでしょう。つまりは文部科学省の役人です。それと日本のマスメディアで、とくにテレビの番組編成を考えているテレビ局幹部も加わっています。しかしながら彼らにはその意識はないでしょう。そしてその背後には、彼らをコントロールしている大手広告代理店もいます。
本書の冒頭で述べたように、大震災でライフラインが寸断されても、暴動はおろかスーパーの棚からパンを取ってくることさえ出来ない日本人をつくっているのも、文科省が考案したカリキュラムというわけです。そう考えると、近年、授業中に子どもたちが教師の言うことを聞かず、勝手な行動をとる傾向を、「授業崩壊」などといって大げさに問題にして騒ぎ立てているのもうなずけます。つまり、自分だけの意思で勝手に動かない、上の人の指示には必ず従う、周囲に迷惑をかけない・・・といった、大人しい日本人の育成にこれまでずっと成功してきた実績からすると、勝手に動き回る子どもが多数派になってしまうのは、管理する側にとっては一大事のはずです。それはおそらく、彼らが作り上げた義務教育の根幹を揺るがす事態なはずです。
それでも「日本」にこだわりますか?
つまり「日本人」とは、①日本方言を話す人、②日本で義務教育を受けた人、ということで、極限すればこの二つにすぎません。これを読んでいるあなたは、高確率で「日本人」でしょう。ではこの定義の上に立って、ほかの日本人に対してどれほど連帯感がわくでしょうか?同じ方言を話し、同じ教育を受けているわけですから、要するに同郷の同窓の友人のようなものです。たしかに親しみは湧くにしても、それだけのことではないでしょうか。それをいまどき、出身地や出身校に大人になってまでこだわるのはナンセンスです。
以上を踏まえた上で、改めて考えてみてほしいのですが、それでもあなたは「日本」あるいは「日本人」という枠組みにこだわりますか?
海外で事故が起きると、日本のニュースでは必ず真っ先に「日本人の安否」を伝えます。これは言外に「日本人意外の命はどうでもいい」と言っているも同然です。私に言わせれば、差別以外の何ものでもありません。2011年の8月にアメリカで、ハリケーン「アイリーン」が東海岸を襲い、甚大な被害をもたらしました。ところが日本ではほとんど報道されなかった。報道しても視聴率が取れないからでしょう。つい数ヶ月前に大震災に見舞われた日本人であるのに、なぜ同じく自然災害に見舞われている他国の状況に目を向けなかったのでしょうか。
国民国家に成りたての明治時代なら、「日本」にこだわることに意味はあったでしょう。
それはナショナリズム的な意味においてです。ですから列強国に金銀を持ち去られないように、日本国内に資本を蓄積するのは、日本人が豊かになるためには必要なことであったと思います。また敗戦後の焼け跡から立ち上がるために、「日本人」として団結することにも意味はあったでしょう。だからこそ吉田茂首相は、「日本は独立を取り戻した」と解釈できる「優しいウソ」をあえてついたのだとも考えられます。
しかしとうの昔に日本は、世界でももっとも豊かな国の一つになっています。
にもかかわらず、相変わらず、「日本」という枠の中で利害を考えているのは、あまりにも視野が狭すぎるのではないでしょうか。ネット右翼の若者たちのように、無力感を埋め合わせるために、「愛国」という杖にすがる人々がいるのは仕方がないことでしょう。人は誰しも、心が弱くなることがあるからです。しかし大人になっても、こうした幼稚な遊びに夢中になっているのは、やはりまずいと思うのです。
とにかく「やりたいことをやる」覚悟
それより何よりも、「日本」あるいは「日本人」という枠組みは、日本人のためにならないのです。つまり日本らしく、日本人らしくあることは、結局、これまでの儒教的なものの上に築かれた心理的支配構造を受け入れることであり、自分の可能性を狭めることであることは、本書において繰り返し見てきたとおりです。では、日本人はどう変ればいいのでしょうか? どうやって「日本」や「日本人」といった枠組みから飛び出せばいいのでしょうか?
具体的な方策については後に提案したいと思いますが、まずは、「とにかくやりたいことをやれ」のひと言に尽きます。日本の社会はあまりにも強い儒教洗脳と、よくできたパノプティコン(全体監視システム)社会であり、それがこれまで徹底的に個人の行動を縛り付けてきたと同時に、ピラミッド型の社会構造は、個人の可能性を阻害してきました。言ってみれば、日本人はずっと手足を縛られたまま生きてきたようなものなのです。
それでもなお、日本は世界有数の富裕国になったのですから、もしも日本人が自由に動けるようになれば、さらなる飛躍が可能になるはずなのです。だからまずは、「とにかくやりたいことをやれ」、そう呼びかけたいのです。「やりたいことをやれ」と言ったところで、元が大人しい日本人のこと、社会が無法状態になる心配はないでしょう。
これまで窮屈な社会秩序を維持してきた日本人は、その分、集団で統率の利いた行動をとることができた。明治の殖産興業にしても、戦後の「傾斜生産方式」にしても、政府が音頭をとり、各業界が強調して動くことによって成功したのです。しかしすでに、この方法は行き詰っています。なぜなら日本人は経済力は健在でありながら、すっかり活力を失ってしまっているではありませんか。豊かになった日本人は、もはや奴隷のまま喜んで働くことはできません。個人の可能性を潰され続けることにも、もう耐えられなくなっています。
それならば私たちは、一人ひとりがやりたいことをやる社会に一歩を踏み出すしかないのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
2012年12月 2日 (日)
日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
ディベートとは、議論や討論をすることで、二手に分かれてある論題について、どちらが妥当かの結論を出すことを言います。競技としてのディベートでは、いわゆる見た目で感じられる要素などはいっさい考慮されず、たとえば感情をこめた話し方であるとか、表情や態度、印象などの、テレビ討論やスピーチ大会で重視されるような要素はいっさい考慮されません。必要なことは内容であるので、そのためにはこうした要素は意思決定においてはノイズ(雑音)でしかないからです。
企業の意思決定にかぎらず、国会で議論が交わされるのも、裁判で原告と被告に分かれて主張や立証を争うのも、すべてディベートです。そうすることによって、より確からしい結論にたどりつける可能性があるからです。民主主義がまともに機能するのは、こうしたディベートがしっかり実践されている場合だけです。それを、いわゆる多数決による議決だけで意思決定が行なわれているとしたら、そこでは民主主義は単なる「多数派による独裁」でしかありません。
国会であれ、裁判であれ、株主総会であれ、議決にいたるまでに十分なディベートが行なわれ、十分な情報が議論において提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです。しかしもし、このような意思決定の場に「情状酌量」が持ち込まれたらどうなるでしょうか。
「Aの案を提示した社員はさえない中年男だったが、B案は美人の女性社員だった。
だからB案を指示しよう」
「あいつはネクタイも曲がってるし、服装もだらしないし、そういうヤツの言うことは信用できない」
「彼は同じ大学の後輩だし、子どもも同じ小学校に通っているから賛成してやろう」
このような感じで議論の内容以外の要素が判断材料として働くようになると、それはもう議論ではなくまともなディベートは望めません。「情状酌量」によって、対立する側の立場の対等性が保たれないのであれば、十分な発言の機会が与えられない、あるいは与えられるといった不公平が生まれます。そうなると議論の場には偏った情報しか提供されないことになり、判断はより偏っていくことになる。
結局、「情状酌量」を持ち込むと、意思決定をする機関は妥当な解決から遠ざかることになります。これこそが問題解決能力が低い、つまり端的にいえば「無能」なのです。どんなに理を尽くしても受け入れられず、それとは別の要素で意思決定が行なわれることが続けば、合理的な人ほどエフィカシー(自分の能力に対する自信)が低下するのは無理もありません。つまり日本の企業や裁判所は、「情状酌量」で判断する組織なので、民主主義の根本を否定していると言えます。
前章で、日本人を奴隷化した元凶の一つであると断罪した儒教思想ですが、そのもっとも重要な教訓は、言うまでもなく、孔子の言行を記録した『論語』です。その中に、
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という、有名なフレーズがあります。この意味は一般的に、「弁舌が巧みで、愛想よく取り繕(つくろ)った顔をする者には、人としてもっとも重要な徳目である”仁”が欠けていることが多い」という意味に解釈されています。
この「巧言令色鮮し仁」こそ、日本の「情状酌量文化」に、きわめて大きな悪影響を及ぼした考え方だと私は思っています。一見すると「巧言令色」のいう批判は、上面に騙されるなという意味にも取れるので、むしろ「情状酌量」を否定しているように思えるかもしれません。しかしここで否定されているのは、詭弁や屁理屈ではなく、あくまでも巧みな弁舌です。この否定は議論やスキルの否定と同じであり、つまりは、孔子はディベートを否定しているのです。「ディベートの上手いヤツは、愛想を振りまくヤツと同じく信用できない」。これが孔子の考え方です。
そして今でも日本では、男は寡黙なほうがカッコいいとされる傾向がありますが、元はといえばこのフレーズに由来しているのです。ディベートが機能せず、「情状酌量」がまかり通る日本的風土の原点は、またしても儒教思想だったわけです。また「巧言令色」を否定する一方で、儒教思想が重視する「仁」という徳目は何かといえば、これも大いに問題があると言わざるをえない。
「仁」はふつう「思いやり」と訳されます。
自分を律しつつも、他者を思いやる気持ちが「仁」ですが、これだけ聞くと、素晴らしい教えのようにも思えます。しかし儒教の解釈学では、「仁」を構成する要素は「忠」と「恕(じょ)」であるとされており、「忠」は文字通り忠義の忠であり、「恕」は「思いやり」と訳されています。(実際には「恕」は儒教の重要な儀式のことを指している。詳しくは拙著「洗脳論語」(三才ブックス)を参照。
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか? どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
企業の意思決定にかぎらず、国会で議論が交わされるのも、裁判で原告と被告に分かれて主張や立証を争うのも、すべてディベートです。そうすることによって、より確からしい結論にたどりつける可能性があるからです。民主主義がまともに機能するのは、こうしたディベートがしっかり実践されている場合だけです。それを、いわゆる多数決による議決だけで意思決定が行なわれているとしたら、そこでは民主主義は単なる「多数派による独裁」でしかありません。
国会であれ、裁判であれ、株主総会であれ、議決にいたるまでに十分なディベートが行なわれ、十分な情報が議論において提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです。しかしもし、このような意思決定の場に「情状酌量」が持ち込まれたらどうなるでしょうか。
「Aの案を提示した社員はさえない中年男だったが、B案は美人の女性社員だった。
だからB案を指示しよう」
「あいつはネクタイも曲がってるし、服装もだらしないし、そういうヤツの言うことは信用できない」
「彼は同じ大学の後輩だし、子どもも同じ小学校に通っているから賛成してやろう」
このような感じで議論の内容以外の要素が判断材料として働くようになると、それはもう議論ではなくまともなディベートは望めません。「情状酌量」によって、対立する側の立場の対等性が保たれないのであれば、十分な発言の機会が与えられない、あるいは与えられるといった不公平が生まれます。そうなると議論の場には偏った情報しか提供されないことになり、判断はより偏っていくことになる。
結局、「情状酌量」を持ち込むと、意思決定をする機関は妥当な解決から遠ざかることになります。これこそが問題解決能力が低い、つまり端的にいえば「無能」なのです。どんなに理を尽くしても受け入れられず、それとは別の要素で意思決定が行なわれることが続けば、合理的な人ほどエフィカシー(自分の能力に対する自信)が低下するのは無理もありません。つまり日本の企業や裁判所は、「情状酌量」で判断する組織なので、民主主義の根本を否定していると言えます。
前章で、日本人を奴隷化した元凶の一つであると断罪した儒教思想ですが、そのもっとも重要な教訓は、言うまでもなく、孔子の言行を記録した『論語』です。その中に、
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という、有名なフレーズがあります。この意味は一般的に、「弁舌が巧みで、愛想よく取り繕(つくろ)った顔をする者には、人としてもっとも重要な徳目である”仁”が欠けていることが多い」という意味に解釈されています。
この「巧言令色鮮し仁」こそ、日本の「情状酌量文化」に、きわめて大きな悪影響を及ぼした考え方だと私は思っています。一見すると「巧言令色」のいう批判は、上面に騙されるなという意味にも取れるので、むしろ「情状酌量」を否定しているように思えるかもしれません。しかしここで否定されているのは、詭弁や屁理屈ではなく、あくまでも巧みな弁舌です。この否定は議論やスキルの否定と同じであり、つまりは、孔子はディベートを否定しているのです。「ディベートの上手いヤツは、愛想を振りまくヤツと同じく信用できない」。これが孔子の考え方です。
そして今でも日本では、男は寡黙なほうがカッコいいとされる傾向がありますが、元はといえばこのフレーズに由来しているのです。ディベートが機能せず、「情状酌量」がまかり通る日本的風土の原点は、またしても儒教思想だったわけです。また「巧言令色」を否定する一方で、儒教思想が重視する「仁」という徳目は何かといえば、これも大いに問題があると言わざるをえない。
「仁」はふつう「思いやり」と訳されます。
自分を律しつつも、他者を思いやる気持ちが「仁」ですが、これだけ聞くと、素晴らしい教えのようにも思えます。しかし儒教の解釈学では、「仁」を構成する要素は「忠」と「恕(じょ)」であるとされており、「忠」は文字通り忠義の忠であり、「恕」は「思いやり」と訳されています。(実際には「恕」は儒教の重要な儀式のことを指している。詳しくは拙著「洗脳論語」(三才ブックス)を参照。
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか? どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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