Saturday, September 8, 2012

◯_薫風亭さんとエミシ_◯






多賀城と胆沢城
[2010-03-19 22:08:36 | 薫風亭]
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└記事:2010-03-18 [


宮城県多賀城市にある多賀城史址。大和朝廷の奥州経営の拠点として、奈良時代に建てられた政庁の址です。


仙台に住んでいた時分、私はこの史址のある台地が妙に好きで、よく訪れては、なにをするでもなく、ブラブラ散策したものです。

その時直感的に思ったのは、「ここは、かつてのエミシ達の聖地」だったのではないか、ということでした。

その聖地を奪い、支配のシンボルとなる建築物を建てる…なんとも憎々しいことをするものだと。


この度の記事で、多賀城址だけではなく、岩手県の胆沢鎮守府址のある平原、とりわけ鎮守府八幡神社の鎮座されている辺りも、やはり聖地だったのだろう、という思いを強くしましたね。

エミシ達の神を隠し、支配者側の新しい神を置く…。


御先祖様達の無念の想い、察っせられます。



ま、これは私の勝手な想像です。異論反論、あるかも知れませんが、どうかスルーで(笑)



鎮守府八幡神社
[2010-03-18 12:26:52 | 薫風亭]
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└記事:2010-03-18 [


岩手県奥州市には、エミシ平定の軍事的拠点、胆沢鎮守府が存在していました。


今はなにもない、ただの平地ですが、

その史跡の片隅に、鎮守府八幡神社が鎮座しております。

胆沢鎮守府の創建が延暦16年(797)ですから、

この神社もほぼ同時期に建てられたものですので、

およそ1200年の歴史があります。

私は以前から、この神社に惹かれるものを感じておりました。

私はエミシの血を引く者。

この神社の創建者とされる坂上田村麻呂は、いわば御先祖様の敵です。

敵の建てた神社に、何故これほど心惹かれるのか?

なんとも複雑な気分になったものです。
今日の記事で、すべてが氷解しました。

私はこの神社に、先祖が信仰していた白山神を感じていたのだ、と、

勝手に介錯させていただきます(笑)


ちなみに、宮城県仙台市の大崎八幡神社は、


こちらの鎮守府八幡神社の分霊を祀ったものです。

私が仙台に住んでいた時分には、この大崎八幡が、市内で最も好きな神社でした。

不思議な縁を感じます。



三年寝太郎さんへ
[2010-01-09 20:47:34 | 薫風亭]
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└記事:
2010-01-08 [


もののけ姫が勧善懲悪だとは思えませんけどね。そもそもこの作品には、所謂【悪役】は一人もいません。みなあがいている。何が正しいのか、なにが幸せなのか、ってことに対してね。
この映画には【結論】がない、と私は書きました。それはつまり、“人類が存在しない、全き大自然”という選択肢も有り得ることを意味します。もはやヒューマニズムですらない。
脇役が魅力に乏しいのは、そうかも知れませんね。


ただ主人公のアシタカがエミシであることや、牛飼い、タタラ師、狩人、ハンセン病患者といった人々、山の民、もっとはっきり言えば被差別民ばかりが登場し、農民、侍といった定番がほとんど登場しない、というだけでも、かなり挑戦的だと思いますね。そこを理解した人、というか面白いと思った人がどれだけいたのか、そういう意味では、日本人にも外国人にも、理解しやすいとはいい難い。
屁理屈、かな?(笑)





弁財天とオシラサマ
[2009-12-09 18:04:04 | 薫風亭]
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└記事:
2009-12-09 [


青森から岩手の一部において…。
オシラサマという神様が祀られている地域があります。


一尺程の長さの桑の木に、男女の顔や馬の顔などを書いたり彫ったりしたものに、色とりどりの布を重ね着させる。これを神棚などに祀るわけです。

山の神、農業の神、猟の神、馬の神、水の神、子供の神…様々な側面を持ち、その起源については諸説ありますが、よくわからない、謎の神のようです。
その諸説の中には、弁財天起源説や瀬織津姫起源説。

あるいは白山信仰起源説なんてのもあるようですね。

勿論もっとずっと古い、縄文やエミシの時代から伝わるものであろうとする説もあって、その古い信仰に、様々な信仰が集合されて、この地域独特の信仰形態が形成されたとするのが、もっとも妥当でしょうね。

しかし弁財天に瀬織津姫に白山…オールスターキャストですな(笑)
六花さん、河童というと、私はウル○ラセブンに出てきた「テペト星人」を思い出してしまいます(笑)あれは可愛いくないですな。

猛愛さん。
プリンス・シャーキン、好きでした。





薫風亭さま
[2009-12-07 09:55:08 | myunx2]
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2009-12-05 [


はじめまして。
エミシについてのコメント拝見致しました。ご指摘ありがとうございます。本当に蝦夷については謎が多く、今後の研究が気になりますね。
私も今後も古代史を調べて生きたいなあと思います。一日本人として太古のまほろばに思いを馳せ、古代国家成立についてやリーマン様の白山生命起源説など、色々想像してみたいです^^
ところで
エミシについて調べるうち興味深い研究結果を見つけました。また長文になり恐縮ですが、ご紹介させていただきます。外部リンク

(5)縄文人と現代日本人のつながり
引用・・・父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。それに伴い現代日本人は想像以上に縄文人(古モンゴロイド)の血を引き継いでいる事が判明してきた。(中略)日本人はY染色体のD2系統とO2b系統を中心としている事が明らかになった。D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。
この系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の3集団に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られない事が解った。これはアイヌ人88%に見られる事から、D系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だと明らかになった。


(中略)さらにチベット人も沖縄人同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとするシナリオを提出した。
現在世界ではD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が唯一その希少な血を高頻度で受け継いでいる。それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人にD系統が細々と存続するだけである。これは後に両者を分ける広大な地域に、アジア系O系統(弥生人も属する)が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。
またこの研究により、縄文人の系統はそのまま現代日本人につながっているとする説が裏付けられた。・・・引用終
上記ULRには世界各国のY染色体の比率を現したグラフもあり、ちなみに日本人のY染色体比率は、弥生人系(O2bアジア大陸系)50%、縄文人系(D系YAP型)40%、ロシア大陸系(C系)10% だいたいそのような割合です。D系が世界中で日本とチベットにしか存在しない事は非常に興味深いですね。

話は変わりますが、昨日の「題名のな○音楽会」のゲストはバイオリニストの葉加瀬○郎さんでした。彼のバイオリンは大好きでよくアルバムを聴きますが、代表曲のひとつ「エトピ○カ」がアイヌ語で「美しいくちばし」という意味の「美しい海鳥」を現した曲だと昨日始めて知りました。
「エト○リカ」を演奏なさる葉○瀬氏は、まるでアイヌの美しい郷と民を永久に讃える鎮魂歌を捧げる夷様のようで、美しい旋律が届くよう願わずにいられませんでした。・・・私の主観的な感想なので気を悪くなさったら申し訳ありません。長文お読み下さりありがとうございました。
リーマン様 薫風亭様を 生かしていただいて ありがとう御座位ます。
アマテラスオホミカミ アマテラスオホミカミ





エミシとは
[2009-12-06 07:42:41 | 薫風亭(即撤収)]
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2009-12-05 [



エミシ=アイヌ説は、必ずしも定説であったわけではないです。

最近になってから覆されたわけではないので、その教科書云々というのは、一部の説をさも定説であるかのように書き記した、悪い例ですな。

ま、吉田松陰の書簡にも、奥州のことを若干見下したような記述があると聞き及びますし、林芙美子女史などは、東京より向こうに、人が住んでるとは思わなかったそうです(笑)勿論、子供の頃の話ですがね。

ま、【西】の方々にとっては、そんなもんだったのでしょうな…。
それ、撤収!






聖なる約束の復活
[2009-12-06 00:43:41 | myunx2]
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2009-12-05 [


本日コメント投稿させていただいた後、地元の右まんじ起点の「恵比寿様」と「大和政権制圧の悲劇」がとても気になり、調べてみました。また長文で申し訳ありません。

まず恵比寿様の正体については諸説あり
(1)イザナギ神・イザナミ神の子、蛭子命である説
(2)大国主神と一緒に日本全国を歩いて国土開拓をした、少彦名神である説
(3)大国主命の子・事代主神で、天照大神のお使いが来て日本の国土を天照大神に譲るよう言われた時、交渉に当たった神の一人である説
があるようです。
また恵比寿は「戎」や「夷」とも現されるそうで、この「夷」が気になりました。
すると「夷」の様々な意味のうち

(5)蝦夷(えぞ、えみし)の別称。未開の民や東国の武士をさし、または外国人の蔑称。 であるようです。
私が遺跡から感じる「大和政権制圧の悲劇」は多分これかなと思いました。
外部リンク

引用・・・4~5世紀のころのヤマト国家は、瀬戸内海中心の西日本国家として、第一次の成立をみただけである。
その外側には、日本列島の半分にも上る広大な地域が、独立・半独立の状態に置かれていた。その残された独立諸日本を統一して初めて日本国家は完成するので、それまでは日本列島国家は成立しない。
その第二次統一国家、第三次統一国家の統一戦争として、熊襲征伐も隼人征伐もあるのだが、とくにエゾ征伐とされているのは、東日本、北日本全体の経営にかかわるのであるから、これは日本国家形成の最大の統一事業のように考える必要がある。

だから、そのとらえ方も「蝦夷征伐」のような悪者退治史観ではなしに、日本史を二分するような東西抗争史観を根底に置いて、「西の挑戦」に「東の応戦」を対置して、東国から奥羽へ、さらに蝦夷地に主権が進んで、初めて日本国家は完成するという史観に改まってこねばならない。エゾ経営史は国家成立史である。 ・・・引用終
私が習った歴史では、「蝦夷」は「エゾ=アイヌ」でした。しかし上記のように最近の研究で蝦夷は「エミシ=東の勇者」という解釈があり、エゾとは分けて考察されている事を始めて知りました。
しかし蝦夷制圧の様子について「日本神話」や「日本書記」には全く記載がないそうです。しかしこの時代の磁気が、当地の遺跡にはまだ残っているような妄想が・・・外部リンク
引用・・・この中で蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。


「えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず」


(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)・・・引用終
このように『引用・・・日本史を二分するような東西抗争史観を根底に置いて、「西の挑戦」に「東の応戦」・・・引用終』が確かにあり「西の日見子」と「東の月見子」の「約束」があったのではないか・・・など勝手に推測しております。


そして当時日本の中心は富士山と考えられていて、富士山を真ん中に西側の聖地と東側の聖地が存在し、現世はその「約束」をすり替えた「契約」に支配されてきたのではないか・・・そんな妄想が次々浮かび、これはもう、古代国家成立ファンタジーロマン小説書いて、コバルト大賞に応募しなきゃああ!!です・・・スミマセン

長々妄想を書きましたが、今湧いているイメージは「国土に2度と争いを起こすなかれ 郷の民の為に祈り謳え」です。

実はこのメッセージは、最近放送終了した今年のNHK大河ドラマ「天地人」のメインテーマだった気がします。直江兼継が貫いた上杉の「義」は富や権利や面子だけでなく、遠き日の約束まで手放すものでした。全てを手放して貫いた「義」・・・それは国土と民の平和に他ありませんでした。
現在この「国土と民の平和」と「全ての存在との共存」は全国民に向けて平等に発信されているメッセージのような気がします・・・精神世界に興味なく真面目に働いてる各方面の方がちゃんと受け取り、顕現されてるようにも感じます。

来年はより二極化が進み、より良い映画やドキュメンタリー・音楽芸術科学等も出てくるのではないかと楽しみです。
最後に月見子姫?の意思ですが「過去に拘らず無用な争いを止め力を合わせ国土に存在する全ての生命を生かしたい」そんなふうに感じます・・・おそらく伊勢を訪れた事はないかもしれないので、いつの日か伊勢をご案内していただけるといいですね^^長文お読み下さりどうもありがとうございました。
リーマン様を この国の国土と郷の民と森羅万象を 生かしていただいてありがとう御座位ます
アマテラスオホミカミ アマテラスオホミカミ





アイヌと沖縄
[2009-11-29 17:18:07 | 薫風亭]
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2009-11-29 [


アイヌの方々と沖縄の方々は、人類学的にいうところの古アジア人的特徴が強いようです。


所謂“日本人”というのは、この古アジア人―手足が長く、顔の彫りが深く毛深い―と、新アジア人―手足短く彫り浅く、体毛薄め―とのハイブリッドなんですね。

一般的に私のような東北人は、“古”的特徴が強く、近畿圏の方々は“新”的特徴が強いと云われておりますが、それだとて、明確な線引きが出来るわけではない。

少なくとも人種学的には、“生粋の大和民族”など存在しません。アイヌとも沖縄とも、いわば兄弟、親戚関係みたいなものです。
抑、民族とはなんですか?

その定義は、実は学術的にははっきりしていない、至極曖昧なものなのです。

成る程長い歴史の中で、ヤマトとエミシ、アイヌ、あるいはクマソ、ハヤト、琉球などとの対立抗争はありました。しかしそれだとて、年がら年中争ってばかりいたわけではない。

むしろ交流しあっていた機会の方が遥かに長かったとさえ云えると思う。文化、文物の交流は勿論、人的交流、つまり“血が混じり合う”ことも当然にあった。

つまり純粋な“アイヌ民族”も“琉球民族”も存在し得ないことになります。
皇室を嫌っている?そんな人達は、所謂普通の“日本人”の中にもいますよ。特定の政治思想に被れた連中が、一部アイヌ、沖縄の方々の中にもいるというだけのことです。

少し考えれば、全てのアイヌ、沖縄の人々が、皇室を嫌っているなど有り得ないことくらい、わかるでしょ?
好きな人、嫌いな人、関心ない人。そんなのは、どこにでもあることです。一色になど決められるものではない。

極めて浅い考察、短絡的発想ですな。
もっと考えましょう。






エスキモー
[2009-11-15 13:22:02 | 薫風亭]
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2009-11-15 [


エスキモー→イヌイット
ギリヤーク→ニヴフ
インディアン→ネイティヴ・アメリカン
エゾ→アイヌ

これらがすべて差別用語であると、過剰な反応をされる方もおられるでしょうが、現状は必ずしもそうではないようですよ。
自らギリヤーク、エスキモーなどと自称している例もあるようですし、当の本人たちは、さほど気にしてはいない、という報告例もあるようです。

ま、インディアンは完全な勘違いですから、これは直した方が良いですが。

エミシ、セゾ、エビスなどにしても、色々調べてみると、必ずしも差別した呼び方ではないことがわかってきます。状況や時代背景による、ともいえます。
ま、イヌイットは一応国際的に認められた名称ですので、こちらを使った方が無難なことは確かです。
面倒臭い事に巻き込まれない為にも…。

より正確には、【イヌイト】らしいですが。






Unknown
[2009-09-23 10:15:19 | Unknown]
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└記事:2009-09-22 [


今日、うちの娘が近くで行われるお祭りで学校から学年全員で行事に参加します。運動会でも踊るのダンスをこのお祭りでも踊るそうです。

このお祭りはアテルイ・モレっていう1200年昔に東北地方に生きていた人が朝廷と戦って亡くなって首塚が近所にあり供養の為のお祭りなんですけど。初めて聞いたお名前でお祭りとか、ピンと来なかったのですが、ちょっと悲しいお話だったのが印象的でした。
この時代、東北地方の方々は蝦夷(エミシ)と呼ばれていて豊かな土地に田畑を耕し、鮭などを取って平和に暮らしていたのですが、朝廷が豊かな土地からできる作物や砂金を支配したくて
凄い数の兵士を送り込んで攻め入り、その戦いで東北の軍を率いたのが、アテルイとモレという人物です


たび重なる戦乱でだんだんと支配が強くなり、降参して朝廷側につくものが増える中、逆に怒りを爆発させて対抗し土地を知り尽くしたアテルイ側が勝利をおさめると、今度は田村麻呂という人物を率いて朝廷軍は攻め入り長い間、抵抗し戦い続けたアテルイ側は敗北しました。

敗北したアテルイ側は、自分たちの命と引き換えに兵士たちの生命の保証を約束するように田村麻呂に懇願しました。

田村麻呂はその武勇と人柄に惹かれてアテルイとモレの処刑をしないように朝廷に願い出るのために、アテルイとモレを連れ東北から京都に向かい、都の天皇や貴族に命乞いをするのですが、聞き入れてもらえずに田村の願いも叶わず処刑されることになりました。

せめて最後に故郷の北上川に思いを馳せることができる土地を選び、淀川を見ながら河内国で亡くなっていきました。


そして、近くの神社に祀られています。

その神社の元の敷地に塚が建立されており、そこでお祭りがあるのですがそこは桜公園とも呼ばれていて春になると満開の桜でいっぱいです。きっとその桜でアテルイとモレさんたちは慰められているかも・・・って思っています。
さて、朝廷がアテルイを生かしておかなかったのは「蝦夷は野蛮で野獣の心を持つ者たち」だからという理由からでした。偏見はいつの時代もあるんですね。と思いつつ、最後は仲間のために自分の生命を差し出すという潔さと優しさ、人間としての豊かさは立派だなと感じ、死ぬために東北から京都まで来たのですから、その道中の心情を思うと、このアテルイとモレは相当に強い心の持ち主だと思います。
家族だけではなく、兵士である他人を守るために命を懸ける。こんな古い時代にもこのような方たちがいるのだと知って日本人っていいなーと思ってしまいました。

私たちは今、こうしているのは大昔の様々な方たちの犠牲の上で生かされているのかも・・・って大袈裟なような発想をすると、命は粗末にするものじゃないですよね。

生きたくても生きることが出来ない方々もいてそれなのに死にたいと言う、自殺志願者は本当に「生かされている」観点から言うと神様を大切にしていないし我儘だと思います。
自分で生きているのではなく、生かされていることに気がついてほしいと思います。
すいません、長文になり自分の思ったことを思うままに書き込んでしまいました。大変、失礼しました。
生かして頂いてありがとう御座位ます
アマテラスオホミカミ アマテラスオホミカミ
皆さまを
生かして頂いてありがとう御座位ます
アマテラスオホミカミ アマテラスオホミカミ




アテルイの末裔
[2009-09-05 12:04:19 | 薫風亭]
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└記事:
2009-09-04 [


連投失礼します。
○○氏がアテルイの末裔?という与太話のネタ元は、あるいは、佐○○彦氏という“トンデモ歴史家”が20年以上まえに書いた〈東日流外三郡誌〉に関する著作のあとがきかも知れませんね

そこでは、○○氏を“エミシの末裔”と捉えており、明確にアテルイ云々と書かれているわけではなかったと思いますが、あるいはこれが、一人歩きしたものと思われます。
まあ、現政権をぶっ倒したことに、古代史と関連付けて、ある種の爽快感を持って、そのような話を語っている方々がいるやに思われますが、それは言ってみれば、東北人特有のコンプレックスの裏返しであり、私はあまり、健全なことだとは思いません

抑岩手県人で総理大臣になった方々は多くいらっしゃるわけだし、原敬翁のように大きく名前を残した方もおられる。何故○○氏だけが?やはり自○党政権を潰した、というところに、アテルイの無念を重ね合わせて、憂さを晴らしているのでしょう。あまり本気にしてはいけません。


感想

これには感想を書かせてください。
自分が略名111エミシを名乗るようになり、伊勢ー白山道のコメント欄に顔を出さないと決めても、その○○氏のような気持ちで、無念を重ね合わせてはいませんので... 

...それについて、どうか誤解いたしませんように頼みます。





薫風亭様
[2009-08-04 12:50:19 | Unknown]
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2009-08-03 [


岩手の観光パンフレットをまだ握り締めております。
エミシも気になりのぞいているうちに、「エミシの国の女神」菊池展明著 にたどりつきました。瀬織津姫がでてきたりで、もうわくわく! まだ紹介文しか読んでないですけど。てへっ。




八切さんのこと
[2009-08-04 11:01:00 | 薫風亭]
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2009-08-03 [


私は八切さんの説をまるごと受け入れているわけではありません。

どちらかといえば、敬遠していました。

“トンデモ歴史家”は佐治さんまでが限度です。それ以上はちょっと…。

この、ねぶたの起源の説については、知ったのはつい最近、今月に入ってからのことです。なんだかこの説ばかりは、素通り出来なかった。

私の中のエミシの血が反応したのでしょう、きっと。
この説のとおりのことがあったのかどうか、私にはわからないし、そんなことは、さして重要なことではない、と思っています。

ねぶた祭の、あの、逝く夏を惜しむかのような爆発力の中に、私はある種の悲しみをみたような気がした。

ある時から、それが“怨霊鎮め”という言葉となって、私の頭の中に居座るようになった。

まあ、単に梅原さんに影響されただけかも知れませんがね。
八切さんの説は、そんな私の漠然たる思いに何となくフィットした、言ってみれば、ただそれだけのことなのです。

ねぶたの起源の諸要素の中に、なにがしかの悲しい出来事があったのかも知れない、それが何かはわからないけど…私の感傷に過ぎないというのは、そういうことなのです。

正直、八切さんはどうでもよいのです。
ゴメンナサイね…。





ねぶたについて
[2009-08-03 16:22:12 | 薫風亭]
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2009-08-03 [



一般的には、精霊流しの一形態と謂れていますが、こんな説もあります。
八切止夫というかたが称えた説で、


かつて坂上田村麻呂の奥州征伐の際、反乱のリーダーであったアテルイらは京に護送され、斬首されました。

一方、奥州では、アテルイらの妻子や一族郎党が、おおきな穴を掘らされ、その穴に生き埋めにされたそうです。

その時、地元民で朝廷側に寝返った人々が、
その忠誠心を証明するために、その穴に埋めた土を踏み付けて固め、蓋をしたと、

それが、ねぶた(根蓋)の起源であるというんですね。

だから、田村麻呂の山車を曳くのであり、ハネト達の動きは、土を踏み固めた時の動作を表現しているのだと…。
かなり強引な説のような気がしますし、実際学会では、ほとんど相手にされていない。


しかし私は、そんなに真実から遠く離れてはいないのではないか、そんな気がしています。


私は一度だけ、ねぶた祭を現地でみたことがあります。それは勇壮なものでした。

まさにエミシの血が滾る、といった感じでした。

この激しさが、怨霊鎮めに繋がるのかも知れません。

正史から削られた、歴史の真実が、こんなところから仄見えるような気がします。

単なる私の感傷かも知れませんが…。





後書


今日は別のセクション、サイトに明言しましたように、

三蘇さんを忘れないでいるために
古い名である素三蘇、スミソ、を111エミシに足し加えました。

三本の遺伝子という新人類の誕生が、東北と関東で起こり始めている。
この事にも合わせて、それはエミシの蘇りでもあり、埋没神の蘇りの象徴でもあると信じた自分の縁起です。


アテルイのこと、そして生き埋めにされた一族郎党の魂という魂の一部であるという、憤怒と哀しみが、呻きと涙となり、今、自分の指をキーボードに打たせています。

三蘇さんが京都にお住まいのターミーネーターの娘さんと御縁ができたのも、意外や、アテルイを救おうとした人との、霊的な御縁だったなど...有り得ますか、どうか、分かりませんが、不思議なことに、わにさんもタミネタ姉貴と呼んでいました。

こうなれば、打ち明けます。


三蘇さんのつながりであった_わにさんも近所さんの1人になりました。だいぶ前のことでした。

わにさんが投稿を開始した時には、すでに近所さんになっていたと…思います。

後の詳しいことは、わにさん自身が書くと思いますので、自分は控えます。


あまり言い訳しない人なので、投稿のさいに書き間違えなどがあっても、訂正コメントしてこなかったと見受けるので、ささいな誤解を生んでいた気もしますが。



コンピュターは、それぞれが伊勢ー白山道を知り始めた時から使い回しです。
仲間です。見られていけない情報もありません。


今後は、わにさんに協力して頂きながら、ブログを持続していくことになるでしょう。
会話に出てはいましたので、やはり決めて進めます。



生かして頂いて ありがとう御座位ます



_111エミシ素三蘇_

Thursday, September 6, 2012

111_I am Emishi_わたしはエミシ _111




昨日の、心整理ファイル : おバカファイルは昼にアップして、その後に、『訂正と補記をしないと誤解を生むぞ』という内面の声に従いまして、アップし直しました。

編集がうまく(行間スペースなど)作動せずに、最良のネットコネクションを使用していないこともありますが、5度はアップし直ししております。

経過途上で読んだ方々、読み直して頂けますなら嬉しく思います。

My mind_わたしの思い


I been observation for some issues included very personal`s  for days , now I `v got feeling to do , express my feeling , mind, what kind of a life puzzle I `v got and how I need to lines them up for filing in my brain and heart.

A filing , such business like mind but I need organise like cleans up my bed room and have to put away things I do not use for often, I need organise my paper work which has so much writing my words and other people`s opinions there, at here , such as so. 

My name is Miso, which is my nick name and a one of my nature and essence in the one human being as a female.

As Japanese, naturally I am comfortable with Japanese writing. 
Let me write in Japanese. Thank you so much.

God bless you.
Thank for letting me be to live


Emishi Touhoku On My Mind
◎_東北生まれの女の思い_◎_三章


わたしは、ブログ主の知人で、太目裏三蘇+里山てらす、と申します。

二章で取上げました、わたし達が納得する伊勢ー白山道ブログの基本的なテーマから、再び思い出してみます。軸を大きく分類すれば;

1/自宅での先祖供養と神祀りのたいせつさ

2/感謝の思いで日々を生きることのたいせつさ

3/自身内の神の発現のたいせつさ

4/日本の精神性などが世界を助けることができるということを知るたいせつさ

5/健康を保ち長生きすることのたいせつさ

というように置かれていたと思います。

*考察能力などに優れる人は、また違う見解をもつかもしれません。



1/の核にある教えは ;

先祖の元は1つで皆の先祖が1つから生まれています。
<つまりは、この世界には貴方1人しかいない、他人も貴方であり、宇宙の果てまで行けば貴方の体内に辿り着くことになる

自他一体であるから、他を傷つけるなら自身を傷つける。自殺はいけない。どんなことがあっても生きようとする気持ちを消してはいけない!
命の火という日を消してはいけないのです。自身の全細胞の1つ1つが、生きている誰かにつながっていると思えば、億の人々の心の希望の火につながっていると思えるならば、自身を抹殺することは他の心を暗くしてしまうことだ!と、気つくことができます。

自身の良心も、ですから実は自分に属しているのではなくて、億の人々や他の生命体、生物とも、共有している預かりエッセンス/精気であり心気であり、神気であると感じることができます。良心=両親と、伊勢ー白山道様は書きました。

では、その両親を預る人として、日十になれたら素晴らしいのです。そして自身内の両親から良心を宿した子_創作_言動_日々の生活_仕事に向ける姿勢などを生んでいきたいですね。60過ぎた婆さまでも、何かしら生んでいけるでしょう。爺様もね。

心宮は子宮より凄いと思えば、子産みできない女性だろうと、何をしょげることがありましょうか?!心宮から精気の子を生み出していきましょう。


二章で書きました。
<旅に出させられた>という観点に変えることもできます自身の不完全なあれこれ、結婚できない、出産できない、就職できない、恋人ができない.....あれやこれや....旅に出るにも、いろんな路線とルートがあります。それによって景色も違ってきます。あえて遠回りを選ぶ旅もあります。いろいろ、様々...電車、バス、自転車、徒歩、自動車、飛行機...どれに乗っている自分なのか。たまにはアレ、時にはコレに乗る。渋滞もある。そんなもんですから、カンナガラ線に乗りながら、アレやコレであれば、一番にイライラしないで良さそうですね。


二章のファイル作成再確認 : 神仕組みの、実は不公平に見える公平
初めの神の子が尊重されるように、初めの大天使マイケルが重んじられるようにです。


自他一体の裏表。ですが元来は善悪がないように、裏表も1つの◎の中事態一体や実態一体でもある。キーを打ったら、そういう文字が出たのです。妙な一致を見る気がして、感心してしまいました。

あまから内弁天311の婆様なら、なんと仰るでしょうか...しばらく御会いしていません。多々、教わりました。


では、顔を会わせないコメント欄でも互いに教えあえるのか?
どうするのか?
これという答えはありませんが、二章では「答えがみつからない」と書きましたが。

。。。。個性は個性として、味わいは異なるとしても、苦悩する人や失望で押しつぶされそうな人や、健康であっても親が無い人などなどには...優しい思いやりの言葉で声がけするのが、最善であり、万民共通で容認できる安全圏に入るということなのでしょう。

まずは、そこから入り、そして<わたしがもつ個性/九精_辛味塩味はじっくりと様子を見ながら出すことができるなら>なら、わたしも成長するだろうと、本日は思いました。


事はコト/九十。111エミシが昔から言っていたこと。二章でも記した通り、 厳しさと優しさは同じ天秤の左右のバランス九と十のバランスと調和。中道。慈悲と天秤/正義と良心に添うビジネス*マインド。ビジネス*スピリッツもございます。



エミシの神は埋没神

生命発祥の神の山、白山をどんなに持ち出されても、ある時から東北はウシトラ埋没神と共に生きた気がします。

追いやられる、または犠牲になるという転写は、いつになれば終わるのでしょうか…。

わたしの中に、哀しみと憤りと埋没された遺伝子の行き場がない、洞穴のような暗がりがあったとしても、それを嫌っていては、生きられません。

多くの先祖が無念の思いで土葬されたのです。

山に追われてか、元々が山の民なのか…、赤鬼と青鬼の物語に、先祖の姿を重ねてしまうのは、幼過ぎますでしょうか。


わたしなりの結論は、<集まりを禁止するブログ>、でも、先祖供養と心のありかたが重要だとするブログのコメント欄も<集まり>であると感じております。

<集まり>だと思い始めたのは、数日前のことです。

それまでは社会の縮図でもあると考えていました。

ですが、社会より安全な場であり、やはり集まれる場なのです。

ブログ。部路求。部ごとの路を求めると見れば、部ごとの集まりであるとなります。


こちらの111エミシは、どちらかといえば、コメント欄での集まりが無い部という、部族のようなものですが(笑)

英語では<トライブ>ですから、エミシ斗等位部だ!!!と、

111エミシは焼酎を飲みながら話していました。


日本語は不思議で、そして、世界言語にあてはまりそうですね。

漢字は、ですが中国から渡来していますから、やはり老子様と結ばれている精神が日本に永続している....ということですね。素晴らしいことです。

....では運転する/ドライヴは土等位部....ですか..マインドをドライヴする、などの言い方もあるようで、自身を巧くドライヴするにも、土に足をつけていないとなりませんね。

土/現実。そこに足をつけていること。大事ですね。



ファイル整理2_ブログについてのファイル:二章の続き


顔を会わせること、集合することを反対している伊勢ー白山道ブログ主です。

多くがアクセスして[コメント欄に集まる]ことには代わりがありません。

つまり、ブログ主の目が届かないところで集まらない、というのが大事なことです。

霊能集会やセミナーなどの霊的な輸血の仕合で、結果は魂を喰われたり霊精に垢がついたりする<そういう<集まりは危険だ>という意図も含んだ注意です。ですね?

((では、それ以外での、集まりを恐れていてどうするのでしょうか?


数人の集まりなら、恐れることも無いでしょう。それぐらいでオタオタしていては、

感謝想起という祝詞を知った意味もありません。))

やはり、ブログに集いながら、ブログ主の言葉にしないルールに従いましょう。

これはブログ主がコメントをアップするかしないかを決めるルールと、三度クリックを御願いされる現実を考慮してのことです。

クリック隊などがある以上は、やはり集まり場であるから生まれるのだ...と、わたしは、ある時に結論を出しました…。

それぞれの思いを発信している集まりなのです。

*以上の言葉を、攻撃だ、なんて、勘違いしないでくださいね。

ルールがあるから集まりと言えもします。


そんな<集まり>のうちに置いてみれば、少ないルールの中でさえも、管理をされているということになり...そのなかで自由に発信できることです。

組織めいてくるのも仕方がないのでしょう。

組織めいてくるというのは、検索機能がついたり、ペデイアができたり、

あれこれ付いていること。

そういう仕組みが大勢の恊働で成るという時点で、それはすでに組織に育ち始めていると思うからなのです。

5%の運動。

これを粘菌活動に置き換えてみても、やはり粘菌という組織です。

運動というのも勝手な好き放題なものではないのです。

独自の磁気をたいせつにしながら組織していることになります。

絶対に宗教団体と違う点は、ブログ主が教祖と呼ばれていないこと、教祖のように顔を見せることはしておられないこと、お金を集めてはいないことが上げられます。

されていることは、健康に良い食品などを紹介していること。

自書を販売して、その収益を伊勢神宮に奉納されていること。

つまり、わたしたちが御本を購入することで、一緒にわたしたちも寄付を奉納させて頂けているということですね。




組織の中の差別の裏表も一体の◯の中:


眷属方の指示に添うころもあるのでしょうか。
ブログの志向に添うコメントは、やはり好まれるという差別もあります。
これは仕方がないことでしょう。

差別という言葉を良識や見識やブログに示される神示などと合わせて思います。


ブログ主個人の好みだけで選んではいない点に注意を置きます。

その差別は、総合的にー霊的にも本人の魂にも、心の成長を促すためにもー良いから、あるコメントはアップしないという差別を実施していることになります

差を置いて別けていることには変わりがありません。


差別の、これも裏表の◯の中の陰陽ですね。被差別が出てくるわけです。

理屈ぽいでしょうか?...でも、わたしは整理のためのファイルを作成するので、そうしないと頭と心のためにならないのです。

これも、わたし流の自分みつめです。




_今後は大きく2つに別れる霊的な界なのでしょうか_

漠然と言えば、そういうこと。それだけでは整理がつかないのです。

2つの前に、3つ、この人間界/地球に神界、魔界、地獄界が流れ込んで横並びになるそうです。

わたし、すでに魔界めいたところで、魔界人めいた人たちと、魔界めいた区域に住んでいます...。
北アメリカは、日本に縁があると思うネイテヴ•アメリカンの心の故郷です。

...それを思えば、征服した白人の子孫であり、ましてや半端な白い魔者たちであるなら今後は大変だろうと思えてきます。

ホロコーストを経験したユダヤ人と迫害されたネイテヴ•アメリカンの霊線は、繁栄しないといけません。
これ以上の犠牲を引き受けるなど、わたしは許せません。

ですが、半端な魔モノは魔界からも排斥されるでしょう。

善悪は本来は元より無し。魔界を嫌い憎んで、どうなるというのでしょうか。


半端な無責任な魔モノがいけないだけのことです。


傷つけあい、殺し合うのは、
半端な根性=魂性だから出来るのです。

そういう半端モノが、絶対主義の魔モノに利用されたり喰われたりするのです。
欲から戦争に巻き込まれてしまうのです。

半端モノとは、感謝を覚えないモノのことです。

単純な法則でした。わたしも、なかなか覚えません。まだまだ未熟です。

未熟で愛に渇いて、他を憎悪するモノになれば、終わりです。

愛に渇いても、渇いているからこそ、同じ渇きを抱く人に涙できるとしたら、体験するからこそ分かる慈悲心を養えると思うのです。

わたしは、まだまだ、そんな慈悲心を育てるほどにもいかない、種をようやく心に植えたぐらいの段階です...

半端にも未だ届かないのなら、半端圏内からも外れてはいられます(笑い)。
何が幸いするか、解らないものですね...ホント.

相手の種を食べようとするのが半端モノですから、食べられてしまわないように、感謝想起でシールドをしないといけません。



魔界と神界、自在に2つの界を往来できる大きさと度量があれば良いです。

わたしはそこまでの度量もありません。それでも、現実が天国ではありませんから、魔界の隅っこぐらいでウロウロおろおろしているのでしょう。そんな気がします。

とにかく、縁があり集まれば色々あるのも当然だと、そうあきらめることができますね。

集まれば、互いの私信もまじります。心配しての声がけも生まれます。
注意や抑制を加えてくるコメントも出ます。

それには、わたしも初めは驚きましたが、家族内でも起こることです。

家族の交流が異常に少ない家庭で生まれて育ちましたから、慣れてもいないし、独身で単身の身なら、増々につきあい下手になる気はします。


節約のために同居した人間様と触れ合いながら、「あぁ、けとばしてやろか…」と溜め息するというのも、案外と先祖の情けによる流れかもしれません。

あちらも、自由にいかない共同生活に肚も立てるのですから、お互い様ですね。

今は、あちらの都合と事情で、家中が荷物の散らばりの中。協同生活では、それぞれが互いに、思い通りにはいかないのです。


御陰様で、集まるグループ、自他一体のブログ家族と意識するようになれました。

コミュニケーションの一つとして、声がけも、私信過ぎない適度な会話することも、大切だと思えてきて、いつしか交じれるようになりました。

それまでは、声がけもできないし、する気もありませんでした。

なじるような意見を出された時は、仰天しましたが....
今までにはなかった反発力の発言を自内に感じて、それにも仰天しながら..その次元へと踏み込んでみたのでした。

自他一体。そういう一体の成り道もあると感じたのでした。
でも、しばらく道を来てみると、やはり違うようです。

二章でも書いたように自他一体にも、裏表がある



ブログ主の記事が主体の一心同体や自他一体だとしてみます。

記事へ視点がいかないで会話をするのは生けないことになるでしょう。

うまく書けませんが、出過ぎるクギは打たれるということですね。

記事とは関係なさそうな事も書きます。そういうものです。

親の愚痴などを長年書いてきた人は、感謝を学びましょう、と打たれもせずに今だに日に何度か投稿しています。特殊な体験をした人のようです。

何かしら霊的に治めたので、それを看破するブログ主が許してきたと思えば楽です。

わたしがその人に厳しいコメントを述べたときに、「干渉しないように。」と注意をしなかったのでしょうか。

....そうでした、みxxさんの話をしている黄泉がえり蘇り三蘇で、すみません。

二章で述べたように、その一件が落ち着いた後に、急に「干渉は控えましょう」となり、変化の動きが出てきました。



東北のエミシに縁が深いわたしとの霊的な違いなのか。

神祀りや先祖供養ができないわたしと、できている人との違いはありますね。

また人間的な個性の好き嫌いも、ブログ主にあるでしょう。

わたしの中の私は、『相手に良い変化が見えて一件落着すれば、それ以上にはブログ主にとって迷惑かもしれない…』とも、思いました。

わたしは、そんな私と向かい合いました。

「スサノウなんて大嫌いだ」と書いていたブログ主を思い出しています。

わたしは、おそらく青いオーラー系、スサノウ系の女なのでしょう。
それほど次元が高くないにしても、そういう系統だと、自身をそう思えれば、誰のことをも、恨むことも妬むこともありませんそれが、わたしの霊泉、遺伝子の元なのです。


また、エミシの血から発生する磁気を嫌がる...そんな読者もいるかもしれません。

しょうゆ顔などと呼ぶ顔は薄いらしい。
ソース顔は蝦夷系こと、濃い顔ということになるようです。

御顔は別としまして、薄く淡い感じ(これを高尚や霊的に高いと勘違いしている人がいるか。弱いと薄いは同義になる時もあるでしょう。

それを頼りなく思い、頼られてベタとされることにイライラする私を知ると、逆も真なりだわ..と、理解もします。

歴史は昔から、強い者が弱い者を護るか、支配するか、おおまかには、そのような2つの流れです。支配にも類別が出てきます。

大ざっぱに簡略すれば<賢明に統治するか、無知と狂気で壊滅へ向けて統治するか>であり、両方とも支配の成果の顕われです。

濃い=強い=侵略支配を好むと見るか? 薄いことを淡白=高貴。野暮なのは濃い者たちと決めて見ているか?....わたしたちは、まだ平安京を生きているのでしょうか?
自他一体。感じれば感じるほど、むしろサラとは避けたり無視したりできない。

それが、わたしの感得で、性質で、気性だと、そう思うしかありませんが...

野暮に見られようと平気でござーますだ。外見や普段では見せない自身もおりますだ。


引く時は引きます。嫌がられるなら、サラどころではなく、思いきり引いてみるのも、わたしです。

本気で引いたら二度と帰らない。奇妙に半端な引き方で間違いを犯した私には二度と生らない。

大半の薄い弱い人たちが好む濃さは、甘やかしてくれる甘さの濃さのように思います。


それを分かれば、それが一体全体どういう未来を生むかを想像するのも簡単にできます。


体が弱い人、障害をもつ人などを、高い次元界から来たと考える以上、それには神経的に弱い人も入りますか...。

それでも、そこにあぐらをかいて居座ってしまえば、せっかく人間臭さも体験して強くなるために生まれてきてもいるというのに...勿体ない。

自分の人生料理は、自分で台所に立って調味しないといけませんよ。
そんな気持ちが湧いてきます。

感謝想起していても、やはり甘えて寝転がっていてばかりは、勿体ないです。

気持ちが純だけでは生きられない世界で、では誰に世話をしていただきながら生きているのか。そこを感謝して弱いなりに太くなれば良いですね。


神経が細い。繊細。では太い人や武骨を嫌わずに生きてみれば良いでしょう。

甘えた日本人が、武骨な国々と世界の手本になれるか。。。。なれません。

それでも日本を攻撃した国々は今に酷い目に遭うそうです。

。。。。。本当に守護されて愛される日の元の国なのですねぇ。素晴らしい。本当に有難くて、涙があふれます。。。。ありんがとう。



...........◎..........


コメント欄における<私信>という意味を、わたしの脳内と心内で思うと次のようになりました。


ファイル編集3 :


皆が自身のことを書き込むのですから、それがすでに私信であると思います。


どんなに記事についての感想などを述べても、それはそれで私なのです。

私の思いを書く、それが誰かさんのことを気にして書くにしても、それも私信ですね。

わたしの観点では、そうなるので、その自身考を行くしかありません。

私とわたしが交じり合うコメントであり、私信です。

毎日コメント欄で、日に何度もコメントという私信を書く人も少なくはありません。


情報をくださっても、それも私信です。



わたしも、いつかしら、その同類になりました。
コメント欄に依存していたとも言えます。

顔を会わせなくても、集まりをもつのと大差ない様相を見せます。

集まりに依存すると、自分をみつめてコメント私信しているつもりでも、自身内のいろんな声を見失うことが有り得ます。

それを初めて感じたのは、実は『コメントを二度としない』と決めた後のことでした。

さらりと読み流していることを続けた結果と、様々なことを思い出して得た思いでした。



コメント欄では、ハンドル ネイム/Handle Name を持つか、無名で持続するか、どちらでも自由なのですが、無名でいくつもの苦情的なコメントをされる時がありました。

1人で何度も書いているのか?複数が書いているのか?と、
とても嫌〜な感じが胸にきます。

そういうコメントを許しているにも、理由はあるのでしょう。

グルジェフ ワークなるものの真似といいますか、そうされた後の対応を見てみたいのだろうと考えた日々もありました。



世間でありがちな事ですが、『ブログ主の思いもそれらに乗っている』と、わたしは思うこともしました。

神意が思いに混じり乗るとしてもです。それが、何だと言うのでしょうか?

....わたしにはブログ主の反応でしかありません。

凡人は、神意まで気にしていけません。それは感謝を覚えたとしてもです。


神意が分からないからこそ、畏敬を感じて、感謝を覚えようとするのですもの。

神意が分からないからこそ、伊勢ー白山道にやって来たのですもの。

分からないからこそ、どん底の人生経験にも光るものがあるはずだと…、探せる。

わたしは、分からないまま、凡人として、あがきながら生きます。




正義の天秤秤にも左右のバランス(陰陽)と量る必要があると二章で提示しました。
....精義を意識します。

長年のつきあいの読者の気持ちを先に尊重したような、または神経が弱そうな人や繊細な人を庇うために裁定したような、そんな正義の采配も起こり得ます。

それは片手落ちに見えます。見えるだけで、陰陽を知れば別のことが見えてきます。

正義を左に置けば、右には精義を置いてみたいです。

正義で采配する動き。集まってしまうと、起こり得ると思います。

あれこれ采配しないとならないというのは、やはり<集まり>だからです。


精義は、集まることなく、投稿もせずに、黙々と粘菌のように、自身と会話しながら現実の目の前にいる人々と深く関わることをもって精密に成長することを果す

5%を達成した後_現在の提示に近いだろうと感じる、わたしなりの思いです。

正義には裁定や裁きがつきものです。戦争もつきものの表の世界の顔です。
ピラミドの三角に目です。裏の目に精義を置きたい三蘇でござーます。

自身の糧となり、心身に融合し、そして本当に精神力となることでしょう。

他人の正義をあてにするなら、それは危ういものですね。そう思います。




昇華のために、詳しく書きます :

1。わたしへの他からの反感からの騒動が、ブログ主から『他に干渉することは禁止です』と言わせるまでになり、(干渉しているつもりは無く、刺激になったので自身の思いがふくらんだままに思いを書いたと訴えましたが、スルーされました。

2。相手に向けて、(ではアンノンではなく貴方だと分かるようにハンドル ネイムを「てらす嫌い」とでも良いからつけてください、)と(笑い)冗談と読めるような訴えをしました。それもブログ主からスルーされて、掲載されませんでした。

以前にも同じことが、同じアンノンさんとの間で起こりました。

3。今回も、嫌みぽい内容をちょうだいしました。
「どうも貴方様は私に反応してしまうようですね。」と書かれたことを一番に覚えていました。あとのあれこれは本人の内面の問題に思えたからです

「しつこく書けない」とも書いておられた。でも、その言葉の雰囲気には「しつこく書かないのが美徳。あなたってしつこい、」という含みを感じました。

4。それは、イコール、ブログ主の気持ちでもあるだろうと、そう思うことにしました。
あれこれ、悩む時間がないので、そのように決めたのです。

5。ターミネーターの娘さんからの温情ある私信を読んで、思います。

「10倍になって相手に返る....」という言葉を気にします。

感じることは「わたしに嫉妬していた方なら、何かが返るでしょう」というぐらいのこと。過去には多くの人から嫉妬されたので、その生霊でいろいろありましたが、生霊などということさえ思えない時代でしたし、聞いて御返事くれる人もいませんでしたし、今はそういうことも考えたくありません。


相手に返ろうが返るまいが、わたし自身が「これが転機になる」と考えることができるなら、それで良いのです。

10倍などという負が相手に返らないと良いですね。内面で左巻きで渦まく思いが生まれるというのは哀れです。わたしはすでに自他を許しています。

わたしが相手をそんな気持ちにさせもしたのでした。

互いが何かを気つくために、引かされ合ったのだ。わたしは、そう思っています。

今は昇華のためのファイルを作成するために書いています。

ターミネーターの娘様。貴方様はほんまに優しく強い方です。ありがとう。
泣いてくださったなんて...なんだか申し訳ありません。

わたしが泣かしたみたいに感じて、すまなく思います。二度とは起こりませんよ。

貴方様を泣かせるようなことは、二度と、わたしも私もいたしません。


1人の<名無しさん>とも仲良くなれました。

「他に干渉しなように。」と言われた以上、名無しさんとの私信も止めなさいということだろうと、わたしはそう受け取りました。それが最善なのかもしれない。

名無しさんへも、心から、有難いと思っています。生きてください。
わたしも、わたしらしく生きます。





ファイル編集4:


しつこいと思われる...確かに、わたしは事の区切りがつくまでは、しつこいと思います。とことんやれば、後で悔いが残らない。

引いてばかりいた過去や、立ち向かわないために間違った方向へと流れてしまった過去では、思いさえ語ることができなかった!そして失ったものが大きかった。

その失敗は二度としたくない!

そういう思いを、ブログ主は分かっていただろうか。そういうことを書けば良かったのか......いえ、あれで良かったのです。

あのように向かってみるのも、過去ではできなかったことをできたこと。

昇華になったはず。怒ったり、叫んだり、泣いたり、意地悪もしてみる。そういうことができるようになったのだから。

(似た過去をもつ人と理解しあえるのは有難いです。)

それも出来なかった過去だったとしたら?...ええ、できませんでした。

だから体験しておくのも悪くないでしょう。

誰が責任とるわけではない。わたしに返ることだもの。

なら、良いではありませんか。コメント欄で行ってきた事事に後悔はありません。

ただ、実生活が、なかなかに…溜め息ものなので、問題が多過ぎて、ことごとく書けもしません。

日常では日本語で会話できる人もいません。いちいち便りにも書けません...母国語で書けるコメント欄に逃避していたとは、思いました。

良いです。わたしに嫌われる何かがあると思うことにしました。

その何かは何?と、悩みもしない。時間の無駄です。

過去の間違いから、年令的にも手遅れです。

すでに死後の行き先も定まっていると思いながら、日々の幽界めいた事件は減っている魔界の隅っこを生ききっていくしかありません。


別の観点からも、以下に書かかせてもらいます。

わたしの思い。
自他一体は、相手とわたしの何かを修正するために、互いに必要だから反応する。

もっと気さくに、どうなってるのかね〜?..接近して来ないで〜と思う以上は理由があるだろう。

はっきりと書き合いしながら詰めていけないの?』というものでした。

苦手を避けても、次の苦手が登場するでしょうそれは10倍の困難かもしれません。

そういう意味でならば、ターミネーターの娘様が書いていたこと、理解します。

それは、そして、その人の問題ですから、何度でも「声をかけないで」を、10倍すれば宜しいのです。戦うのはそのアンノンさんです。

どうぞ、頑張って自分らしさを通していかれてくださんせ。まだまだ行きはよいよい。

10倍困難のその行きはよいよいのあいだに克服すれば良いだけです。

死にはしませんから、そのぐらいでは(笑い)。


Unknownさん、いつか互いの良い思い出になりますよ...きっとね。


ありがとうございます。(ーiー)合掌



最後に:

ターミネーターの娘様の疑問の応えになると良いですが...

くくり点太素こと、111エミシと一協同作業、4つのサイトのうち、1つを分担する仲間になっていました。

また同郷ですし、遠く無い距離に住みます。
....「同類でしょ」と見ている人がいるなら、それはそれで、もう思うようにさせて放っておこうということです。


『集団ではなく、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します』の言葉に、改めて思いを寄せてみることができたのです。

個人と言っても、自他一体ならば、気になったコメントに声をかけるのは当然に良いわけです。もちろん、親切な声がけなら更に良いわけです。

ストーカ扱いまでされて、(相手が無名さんであるのにストーカができるわけもなく)それにも関わらず、次には、結論/干渉しないように_と成り、わたしの中の【自他一体】という『私は貴方、貴方は私』=『わたしは貴方、貴方はわたし』が治まりませんでした。それだけです。数度スルーされて、それが御返事なら、一章、二章で書いた通りの流れへと進むしかありませんでした。御陰様で整理がつきました。

有難いことです。

「自分をみつめましょう。」深いけっこうな御言葉です。

みつめないと外地で単身、生きてこれませんでしたし、今後もいけません。
見詰めて、すでに死後の行き先が決まっていると結論も出しています。それでも、未だ足りないと想いながら、二章で述べたように、できるタイミングでいたします。


ブログから去った途端に、去った人の背中に後ろ指を指すのは、陳腐な心模様です

皆さまへの返りを生まないためにも、互いに全てを流して互いの道を生きましょう。

肚が立ちますなら、どうぞ、わたしの次元での思いごとなのですから、皆さまの真実では無いのですから、気にしないでください。

わたしは、今後は二度と、ファイルにして閉じてしまう事事、特に、伊勢ー白山道ブログのコメント欄については口を閉じて、手を動かしません。

どうぞ、皆さま、心を治めて、安心されてください。

わたしについての質問などなさらずに、去った者への好奇心や揶揄は捨ててください。


差別を被った民族と共に生きたエミシの流れを汲む命だと、信じながら、

御天道様を仰ぎながら、

地球にも御土様にも御水様にも、感謝を想いながら、進んでまいります。
今まで、ありがとう御座位ました。

これもきっと良い思い出になることでしょう。感謝でいっぱいです。

合掌


皆さま、それでは、さようなら。
三蘇と里山は新たな生活へと踏み出します。

南無十一面観世音菩薩

今までの経験からの気つきに 感謝します。


生かして頂いて ありがとうございます