Friday, July 15, 2011

心と脳



心を1つの意志に統率して志をもつことはだいじです。感情面の流れをもその意志へと統合させます。


そして日々の感情のドラマを、なるべく意志に添わせるものに限定していき、呑まれないからこそ、むしろ感情も頭脳も生かされるやもしれません。


男であれば仕事に精を出して家庭の感情的なゴタゴタを忘れ、家庭に戻れば仕事上のあれこれを忘れ、感情の波をうまく乗りこなす訓練がいるようです。


そのようにして発揮される感情は、おふざけするアホのように見えても、エゴ的な家族への怒鳴りとなって出ても、内面の意志にくくられているので救いがあります。


意志は、慈悲とともにくくられるのが最善で良いと思います。


頭脳明晰で知識があろうとも、その知識に頼り過ぎた観察では、霊界力や魔法力の魔法瓶の中で、他人をも自己基準で判断するマスターベーションに鳴り得ます。
洞察へと至らないように思えます。
つまり、皆がそれなりの自己基準を保つのですが、上の場合はアンバランスです。


慈悲とは、表面に出ている問題や言動だけを観て即断することではありません。
会ったこともない人の一部の現れを観て、裁定するなどもってのほかです。


また、論文を書いているわけでもない一部の感情表現こと、ある1つのテーマに則した筆記を読んだだけで非難攻撃するのも、思慮に欠ける情けない行為です。


生活と生きる上のことであっても、それは実は死をも含めて人生の全てです。


その中での、多くのテーマを書き記した中で、共通する欠点が見いだせたなら、そしてそれが他人にも悪影響を及ぼすものだったり、本人にも全く得にならないと思うのであるなら、非難も良いでしょう。
他のことなど考えない心があからさまに見える記述などは、叩かれてもしかたがないかもしれません。
然しブログ主が叩いたのであれば、それでモグラ叩きを終了させるべきです。
後はブログ主とその個人との対話に任せるべきです。そしてむしろエールを送ってあげるのが良いだろうと思います。


慈悲を心に頂くということは、感情という性につながる陰界を抑圧してしまうことでは頂けませんし、心にも生まれません。
感情を学び味わうことを恐れないで、感情ある生活を受け入れる体験の中でこそ頂き預かれるものだという気がします。


これはまさしく陰陽の結ばれから第三のエナジーへと転換するのに必要不可欠なトンネルかもしれません。
感情が心と二人三脚でなければ、慈悲さえも生まれてこないと思えます。
心が貧しければ、感情も生まれてきません。音楽などという芸術も生まれません。


大事なのは、感情が食べられてしまわないようにする注意と警戒です。
ですから、感謝想起をしていても仁王立ちして怒鳴り返すことも、生きている上ではあるものです。
その過程も、相手があるからこそ起こる生活の一面の進行具合です。


怒り返すのはいけないが、負けて泣くのは良いとするなら、それは間違いです。


恨みつらみを水に流す方法もある。来る魔物を火打石で祓う方法もある。


いちゃもんつける相手を想いながらも、怒鳴ってやるのも火打石のカチカチ!やもしれませんね。
最悪の状況は想いながらも、自他について、おおらかに観て考えて生きたいものです。




しかし、頭脳明晰、もしくは知識が豊富、本をたくさん読んで来た人に言いたいです。
では、心をそれ以上に育ててバランスを築き上げる責任もありますよ。と。


第三の内在の神気であるだろう遺伝子の進化を喚起できないと思うからです。


突く槍. 重い槍=思いやりの突きかたを知識の槍にすげ替えて突くという間違いを、してはならないのです。
その間違いは、知識のひけらかしに過ぎないエゴになります。


頭が良い、知識を得た、そんな人ほど突きかたを誤ると、悲惨ですね。
さらには深くも知らない他人を、無知だと決めつけるなど、言語同断です。


それぞれの脳と宇宙と太陽を太くしながら、不徳のないようにしたいですね。





自身道を生きましょう。自分の内なる宇宙を信じましょう。