Here Kunpuutei-Okudaidou came from a comment section of a blog Ise-Hakusan Dou!
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I respect and trust very much Ise-Hakusan Dou of Japan and of the whole world, because I trust what and how myself feel to Ise-Hakusan Dou. And I love articles of him.
Then, I love articles of Kunpuutei-Okudaidou in Northeast of Japan.
*< Emishi of Touhoku ( Northeast of Japan ) at Kamakura Samurai Era >*
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by Kunpuutei-Okudaidou
( Sub handle name : Kunpuutei )
リーマンさん、貴重なコメント欄お借りします。
お待たせしました。鎌倉時代のエミシについて、ですか。
う〜む、どこからお話ししましょうか。
まず基本をおさらいしますと蝦夷(エミシ)というのは、特別そういう異民族がいたわけでもなんでもない、
単に東北に住む人々、そこには王化に逆らう者、“まつろわぬ者ども”という多分に差別的な意味を含んでいたにせよ、東北人という意味として使われていたと考えていい。
この言葉は、おそらく鎌倉期頃には、表立って使われることは少なくなっていっただろうと思われます。
何故なら、平泉藤原氏が源頼朝によって滅ぼされた後、奥羽の地は鎌倉御家人の知行地として分配され、そうした御家人達が奥羽に移住してくるわけです。
そのような状況の中、かつてエミシもしくは俘囚(王化に従ったけど信用できない奴ら=やっぱりエミシ)と呼ばれた人々は、おそらくはその配下に組み込まれていったか、あるいは自らが鎌倉御家人となって幕府に仕える道を選んだ。
このように入り乱れた形になってくると、もはや東北に住む者=エミシとはいえなくなってくるわけですね。
もっとも潜在的には、奥羽・東北に住んでいる者どもは皆エミシとする差別的観念は潜在的にはずっと残った。
それは現代までも続いてきたのだ、と私は読んでいますが。
それはともかく、こうしてエミシという言葉は徐々に使われなくなっていき、
蝦夷は“エゾ”と読み方を変え、本州最北端の津軽や北海道の地、あるいはそこに暮らす人々(後のアイヌ人)を指すようになります。
さて、この蝦夷地を差配していたのが安藤(安東)氏という一族です。
鎌倉幕府より「蝦夷沙汰職」という役職を正式に与えられ、北条得宗家の被官となって蝦夷地を管理しておりました。
この安藤氏の系図が面白い。先祖を、神武天皇と戦って敗れ誅された長脛彦の兄、安日(アビ)彦としており、
この安日彦が奥州の地に逃れ、その子孫が安倍氏を名乗るようになった。安日→安倍ですね。
さらに前九年合戦で敗れた安倍貞任の遺児・高星丸が津軽に逃れてきて、後に安藤氏を名乗る。これが津軽安藤氏の先祖だというわけです。
この系図がどこまで正しいのかは、正直よくわかりません。もし本当だとしたなら、正当なエミシの嫡流ですね。
まあ、例え嘘だったにしても、このような反逆者の血統を誇る気風が、少なくとも北奥にはあったとみるべきだし、蝦夷地の人々も、このような血筋だからこそ従った、といえるのではないでしょうか。
青森県人は東北の中でもとりわけ反骨精神が強いと私は見ていますが、その一反がこんなところにも垣間見られるように思います。
余談ですが、青森県人のシンガーソングライター吉○三氏の曲「俺ら東京さ行ぐだ」。
この歌詞にエミシの反骨精神をみたのが、岩手県出身の宗教学者・山折哲雄氏です。
一見東京への憧れを歌っているかのようですが、最後の最後で、価値の逆転があるのだそうです。
東京で牛(べご)買うだ〜♪
銀座に山買うだ〜♪
つまり最後の最後で、東京の価値観と田舎の価値観とがひっくり返されているわけです。
これは笑いのオブラートに包んだ、東京や中央に対する強烈なアンチテーゼであるというわけですね。山折氏はここに、エミシの反骨精神をみるのです。
エミシは現代にも生きている…。
嘉暦の頃、安藤氏に内紛が勃発します。
幕府はこれに介入し治めようとしますが、安藤氏側はこれにまったく応じない。
北条得宗家の被官であった安藤氏が、主筋にあたる幕府の言うことを聞かない。
つまりこの頃には、遥か北億の地にあっても、幕府の権威は地に落ちていた。
一説によると、これをみた新田義貞や足利高氏が、もはや幕府に味方するもの少なしとして挙兵したのだとか。
だとするなら、鎌倉幕府の立ち上げと終焉には、どちらも東北が関わっていることになりますね。面白いですねえ(笑)
この点、東北というものを考える上において、一つの重要なポイントとなり得るかも知れません。
さて安藤氏はその後、室町期には安東氏を名乗り、さらには秋田氏を名乗って戦国大名、近世大名を経て、明治期には子爵家となり、現代まで続いていきます。
時代の荒波を乗り越えて生き残ったその姿に、今後の日本の姿を重ね合わせたいものです。
どうでしょう?こんなところでお役にたちましたでしょうか?
長々と失礼いたしました。
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【感想】
ここに再度、楠正成のウイキ版を転載します。
私の母方の先祖に縁がつながる伊達政宗についてのウイキ版は次回に転載させて頂きます。
今まで調べることもなく生きてきて、今頃、いろいろ気になります。
ここにアップするのは、先祖にまつわる顔も名も知らない皆様や先祖を想い偲び、そして生命の連鎖を思うためです。
もちろんに、名も無く貧しい先祖が多くいたはずです。
戦場で討ち死にした下級位の武士もいたやもしれません。
ここに、三本線香供養の素晴らしさを改めて思うことができます。
子爵として生き残った安藤家こと安東氏は秋田家と名を変えたということで、なんとも感慨深いですね。この一族は、賢明な指導者に恵まれていたのでしょう。
伊達藩につながる先祖をもつらしい私に流れる因縁とは、いかに?
独眼竜正宗公ですからな....。と、ここまで書いた後の一行を消したのは本日九月二十四日です。伊達正宗についてのウィキペディアを読み、強く思い至ることがあったためです。
叔父も祖父も祖父の兄も、辛苦の果てに哀しいドラマもあり、病による死を遂げています。
祖父の兄は独身を通し、妻もちの実弟に家督を継がせたようです。
そして、おそらく明治時代の後半、北海道へと食い扶持を稼ぐために出ています。
どのように生きたかは定かではありません。
生かして頂いて、先祖へと思いをかけることができて、ありがとう御座位ます
感謝満杯。
楠木正成
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 永仁2年(1294年)? |
死没 | 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日) |
改名 | 多聞丸(幼名)→正成 |
別名 | 悪党、大楠公 |
神号 | 南木明神 |
戒名 | 霊光寺大圓義龍卍堂 |
墓所 | 観心寺 |
官位 | 兵衛尉、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国守護、贈正一位 |
主君 | 後醍醐天皇 |
氏族 | 楠木氏 |
父母 | 父:楠木正遠(諸説あり)、母:橘盛仲の娘 |
兄弟 | 俊親(正俊)、正成、正季、正家 |
妻 | 久子(南江正忠の娘) 滋子(万里小路宣房の娘) |
子 | 正行、正時、正儀 |
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。
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生涯 [編集]
前半生 [編集]
河内国石川郡赤坂村(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)の出生とされる。生年に関しての確実な史料[1]は存在せず、父は系図により楠木正遠あるいは正玄、正澄、正康、俊親などと伝え、はっきりしていない。そのため正成の前半生は殆ど不明であり、判明しているのは元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までの約6年間に過ぎない。
元弘元年(1331年)臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する、悪党と呼ばれた豪族であったと考えられている。また、この時既に官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物達と接触を持っていたと思われる。
出自に関する異説 [編集]
- 鎌倉幕府が1293年に駿河国入江荘長崎郷の一部と同荘楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり「楠木」を名字とする北条得宗家の被官の存在が想定できる。
- 正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の字(あざ)は無い。
- 観心寺荘の地頭だった安達氏は1285年に入江荘と深い関係にある幕府の有力御家人長崎氏に滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる。
また、正成を攻める幕府の大軍が京都を埋めた1333年の閏2月の公家の日記に「楠木の根は鎌倉に成るものを枝を切(り)にと 何の出るらん」と言う落首が記録されており、この落首が「楠木氏の出身は鎌倉と言うことを意味しているのではないか」と言われている[要出典]。
挙兵から鎌倉幕府滅亡まで [編集]
この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城にて挙兵し、湯浅宗藤と戦う(赤坂城の戦い)。後醍醐天皇と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教の僧である文観と思われる。後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦した。
元弘3年 / 正慶2年(1333年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利高氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。後醍醐天皇が京へ凱旋する際、兵庫まで出迎え、同道警護についた。
建武の新政 [編集]
後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政において正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる(『太平記』の記述)。だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。
湊川の戦い [編集]
延元元年 / 建武3年(1336年)、九州で軍勢を整えた足利方が、再び京都へ迫った。この頃正成は、社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあること、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようである。正成は、後醍醐天皇に義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言したが容認されず、次善の策として進言した、京都から朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策も却下されてしまう。絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、湊川(兵庫県神戸市)で足利軍と戦うが敗れ、自害したとされる。
死後の評価 [編集]
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』も正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。永禄2年(1559年)、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成は朝敵でなくなった。また江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。江戸時代後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなる。
明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。
明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。
戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。もっともこの「悪党」という評価はあくまで歴史学のものであり、一般のものではない(悪党という言葉は、一般的に社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団などを意味する用語である)。NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社が抗議する事件が起きている。
墓所・霊廟・史跡 [編集]
- 大楠公首塚
- 大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院、檜尾山観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、尊氏の命によって送り届けられた正成の首級が葬られている。観心寺塔中院は、正成の曾祖父成氏が再建したと伝えられる、楠木家代々の菩提寺。
- 南木神社
- 大阪府南河内郡千早赤阪村に鎮座する建水分神社の摂社で、正成が祭神。本社の建水分神社は楠木家の氏神とされる。延元2年 / 建武4年(1337年)に後醍醐天皇により自ら彫刻の正成像が祀られたのが起源であり、後に後村上天皇より「南木(なぎ)明神」の神号を受けた。正成を祀る最古の神社。
- 楠妣庵観音寺
- 大阪府富田林市甘南備にある臨済宗妙心寺派の寺院で、楠木家の香華寺とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、河内西国霊場第二十番札所。正平3年 / 貞和4年(1348年)に楠木正行・正時が四條畷の戦いで戦死した後、正成の妻で正行・正時の母の久子が、草庵を建立。敗鏡尼と称して入寂するまでの16年間、この草庵楠妣庵に隠棲し、楠木一族郎党の菩提を弔った。敗鏡尼の入寂後、楠木正儀は観音殿を観音寺と改め、不二房行者(授翁宗弼)を住まわせた。観音寺は楠妣庵と共に、兵火による度重なる衰退を繰り返し、更に廃仏毀釈により廃寺となった。大正6年(1917年)に草庵楠妣庵が復元再建、同11年(1922年)に観音寺本堂が再建された。
- 長滝七社神社
- 岐阜県山県市長滝にある七社神社横に、八王寺宮と刻まれた楠公夫人久子の墓がある。正成の妻が楠木一族郎党の菩提を弔った後、戦乱の中、この地を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。地域の尊志を得て、久子(旧姓・南江)の生地甘南備村の字名、長滝、平井、掛、松尾等を伊自良に与えた。奥の院にある甘南備神社は、楠木家の遠祖と称える橘諸兄の父、美努王を祀る。甘南備村の口碑には、楠木正成夫人久子は、観音像を念持仏にして、行脚に出たが、終わるところ知らずとある。墓は、伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内西にある。楠公夫人がこの地に訪れた最大の理由は、新田義貞亡き後、その弟の脇屋義助が大将となり、北陸で敗れ、美濃の南朝一派と共に、最後の根尾城の戦いでも敗れ、根尾川の下流、本巣地区の北朝の根城を避け、一緒に戦った伊自良次郎左衛門の家臣と共に、伊自良に流れ、吉野に帰ったその経路に従ったものと思われる。
- 湊川神社
- 楠木正成(大楠公)の神霊を主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦いで斃れた一族十六柱と菊池武吉の神霊を配祀。戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀された。神社として創建されたのは比較的新しく、明治5年(1872年)のこと。神社創建以前から存在した墓所には、徳川光圀によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。異説もあるが、湊川の戦いで敗れた正成が弟正季とともに「七生報国」を誓って現在の湊川神社の北に位置する寺院廣厳寺の塔頭で共に自刃して自害したとされる、その後塚に移された戦没地ではあるが、墓所地と自害地を境内に有している。(廣厳寺本堂には正成とその一族の位牌が在る)
- 茨木城
- 大阪府茨木市に築城した城。現在は廃城となっている。
- 奉建塔(楠公六百年記念塔)
- 没後600年を記念して、昭和15年(1940年)に全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建てられた記念塔。正成討死の年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている(但し、旗印は史実ではなく伝承。非理法権天の記事を参照)。
- 楠公産湯の井戸
- 生誕の地から徒歩数分のところに「楠公産湯の井戸」とされる井戸がある。
関連作品 [編集]
- 唱歌
- 小説
- 吉川英治『私本太平記』 講談社文庫:吉川英治文庫全8巻ほか
- 山岡荘八『新太平記』 講談社文庫:山岡荘八歴史文庫全5巻ほか
- 大佛次郎『大楠公 楠木正成』 徳間文庫、1990年10月 ISBN 4195991838
- 高橋直樹「葛の楠木」『異形武夫』 新潮社、2001年4月 ISBN 4104452017
- 北方謙三『楠木正成』(上下) 中央公論新社、のち中公文庫 2003年6月、上 ISBN 4122042178、下 ISBN 4122042186
- 吉川佐賢『楠木正成 夢の花』(上下) 叢文社、上 2005年12月 ISBN 4794705387、下 2006年1月 ISBN 4794705395
- 安部龍太郎『道誉と正成』 集英社、 2009年8月 ISBN 4087713121
- 漫画
脚註 [編集]
参考文献 [編集]
- 童門冬二『楠木正成 物語と史蹟をたずねて』(成美文庫)成美堂出版 1995年6月 ISBN 4415065724
- 『神戸と楠公さん 悲運の名将楠木正成公の生涯』湊川神社同編集委員会、神戸新聞総合出版センター 2006年10月 ISBN 4343003795
伝記・研究 [編集]
- 平泉澄『楠公・その忠烈と余香』 鹿島研究所出版会 1973年8月、※但し以下は絶版か品切
- 森田康之助『楠木正成 美しく生きた日本の武将』 新人物往来社 1982年6月
- 森田康之助編『湊川神社史上巻(祭神篇)・中巻(景仰篇)・下巻(鎮座篇)』
- 湊川神社社務所 1984年3月・1978年2月・1987年12月
- 展覧会図録 『御殉節650年記念 大楠公展』 神戸新聞社、そごう神戸店1985年5月
- 植村清二『楠木正成』 至文堂(日本歴史新書)、のち中公文庫 1989年2月 ISBN 4122015871
関連項目 [編集]
- 熊野国造和田氏
- 桜井の別れ
- 後南朝
- 建水分神社- 楠木氏の氏神で、摂社に正成を祭神とする神社では最古の南木神社を祀る。
- 茨木神社
- 千早神社
- 千早赤阪村 - 正成の出身地で、村内に多くの史跡がある。
- 福井城 (摂津国)
- 二上山城 (大和国)
- 楠宏 - 正成の子孫で地理学者・地球物理学者
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