薫風亭奥大道さんの記事にありました安藤氏を追ってみます。
現時点でできることはウイキからの転載です。このようにしながら学ばせて頂いています。感謝満杯!です。明日には伊達政宗版を転載いたします。
安東氏
なお、アンドウの表記について諸史料では
室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから、
個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、
本稿では便宜上、氏族名は「安東」で統一する。
目次[非表示] |
概要 [編集]
のち二家に分裂し檜山郡と秋田郡に割拠したが、
歴史 [編集]
家系 [編集]
その実際の家系については、
なお『安藤系図』には、源頼朝の奥州攻めに際して安藤小太郎季俊が先導をし、
その子季信は幕府から津軽の警護を命じられたとある[4]。
信憑性は低いと考えられている[5]。
ただし、自らを「朝敵」であった蝦夷の子孫であるとする系図を伝えてきたことが、
「津軽山賊」と記載された史料があることなどから、
津軽時代 [編集]
「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。
いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。
ここでいう「ゑぞ」をアイヌではなく広く北方の異民族と解し、
安藤氏がアイヌを率いて元に討たれたのではないかと推察する説[9]もある。
その後、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し津軽十三湊を本拠地とし栄えたと言われるが、
十三湊を支配した時期については諸説あり確定していない。
近年、中世国家の東西境界周辺の得宗被官である、西の千竈氏と東の安東氏の比較検討研究が進み、ともに中央部の武士団に比べて所領面積が広大であり、
国家の境界外に及んでいる点が指摘されている[10]。
その実態は、交易を通じての経済的権益であると推定されている。
安東氏の所領は稲作には必ずしも適さない土地に広がっており、
その内陸部から得る利益は少ないものの、日本海に大きな交易網を形成することにより
多大な経済的利益を得ることが可能な沿岸部の良港を押さえていたことから、
海の豪族とする見方がされている。
(一般的には和人勢力とされているが疑問も呈されている[9])を被官とした。
鎌倉末期には一族で争いが起こり、
鎌倉末期から南北朝時代における安東氏の支配領域は、
津軽西浜以下の地頭御代官職となっており、
上記で安堵された所領には、十三湊も、
系図により本来の根拠地とされている藤崎も含まれていないが、
「湊」を十三湊とする見解[11]、十三湊は「蝦夷の沙汰」に含まれるとする見解、
しかし、安東氏の十三湊進出自体を遅く見る見解もあり分かれている。
また藤崎についても諸説あり、よく分かっていない。
安東氏がその地頭代となったのではないかとする説もあり、
宗家とは別の安東一族の海を通じた広がりが推定されている。
安東氏の活躍を村おこしに繋げようとする試みをしたことがあるが、
現在では青森県教育庁発行の報告書[13]にも
「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している。」と記載されるなど、
偽書であるとの認識は一般的になっている。
二家分裂 [編集]
秋田郡に拠り上国家と称した。
室町時代には下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家は対立したと見られている。
一方、津軽を領した下国家は15世紀半ば頃、
近年の発掘結果からは、十三湊遺跡の最盛期は14世紀半ばから15世紀前半と推測されており、
下国家と上国家は、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺で
蝦夷管領の役割を果たしていたとも推察されている[15]。
この頃から「安藤」の表記を「安東」とする例が多くなるが理由は明らかでない[注釈 6]。
更に、室町幕府の奥羽大名施策において、
下国家 [編集]
天皇もその呼称を認めていたということが知られているが、
盛季以前の下国家の系譜は諸系図によりまちまちであり、
一級史料に見える名と系図の名が一致しない等系図の信憑性に疑問が持たれているため、
実態については、いまだ研究の途上にある。
盛季以降の系譜については生没年等に諸説あるものの、ほぼ疑いのないものと考えられている。
政季は分家の潮潟安藤家出身であったが、
下国家の蝦夷島撤退のころ南部氏の捕虜となり、まもなく南部水軍の根拠地であった田名部(むつ市)を知行し「安東太」を称した。
これを、南部氏が政季を傀儡とし北方海域の各地に広く分布していた安藤氏の同族を掌握したため、北方海域の安定化と幕府権威の浸透につながったとし、
しかし政季もまた南部氏と対立し戦闘に敗れて蝦夷島に撤退している。
津軽帰還を試みたが果たせなかった。
ここを本拠に陸奥国比内、同国阿仁方面に勢力を拡大したと見られる。
比内と阿仁が出羽国の一部として扱われるようになったのは、これ以後と推定される。
忠季以降の安東氏は、檜山築城や寺院建立を行う一方で蝦夷島の経営にも努め檜山屋形と称した。
しかし、次第に蝦夷島が安東氏の統制から離れ始め、特に蝦夷において被官であった蠣崎氏が
上国守護職に加えて松前守護職を名乗ったことを追認せざるを得なくなるなど、
戦国時代前期には実質上北出羽の一豪族となった。
しかし、下国家はなおもかつての勢力圏の支配の意欲を捨てておらず、
東海将軍を称して内外に出羽、陸奥北部から蝦夷にかけての支配圏を誇示しようとした。
(これには否定的見解も出されている[12]。)
特に舜季は蝦夷地に渡り、
蠣崎氏とアイヌとの講和を仲介するなど蝦夷に対する一定の権威を示し[9]、
北日本海に止まらない活動範囲も指摘されている[11]。
上国家・湊家 [編集]
上国家の成立について、従来の説は
鹿季が出羽湊に入ったとの系図記載記事を踏襲したものであったが、
近年、南北朝時代成立の史料により男鹿半島の領主として確認される安藤孫五郎、
安東太の両者や、「市川湊文書」に含まれている寺社修造棟札写に残る寂蔵、安倍忠季、
安倍浄宗等が鹿季の南遷と伝えられている時代以前に遡れること、
湊家以前の男鹿半島の領主を女川家と伝える伝承があること等から、湊家の成立と伝えられる以前に
上国家は、一般的に湊家と称し、
その系譜についても、伝承されている系図が、南部氏の史料とは概ね一致するものの、
前述の寺社修造棟札写から復元される歴代とは異なっており、
女川家も含めてその実態については今後の研究が待たれている。
両家統合 [編集]
戦国時代後期に入ると
上国家湊安東氏に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、
秋田城介を名乗った。
近世大名秋田氏 [編集]
詳細は「秋田氏」を参照
系図 [編集]
(安東氏の系図には異同が多いため、ここでは代表的なものを掲げ、
他の有力な伝承や近時の学説を付記した。)
太線は実子、細線は養子・婚姻関係。
(異伝) 孝元天皇 ┏━━━━━┓ ┃ 長髄彦 安日彦 大彦命 ┃ ┃ (略) (略) ┃ ┃ 安東 阿倍引田臣比羅夫 ┃ ┃ ┃ 宿奈麻呂 ┃ ┃ ┃ 小嶋 (略) ┃ ┃ 家麻呂 ┃ ┃ ┃ 黒人 大墓公阿弖流為 ┃ ┃ 富麻呂 ┃ ┃ (略) 宅良 ┃ ┃ ┃ 隣良 忠頼 ┃ ┃ ┃←━━━━━━━━━━━┛ 忠良 ┃ 頼時 ┣━━━━━━━━━━━┓ 行任 貞任 ┃ ┃ 高任 高星 (異伝) ┃ ┣━━━━━━━━━━━━┓ 和任 堯恒 安東太郎季任 ┃ ┃ ┃ (安藤)季任 (数代不詳) 季俊 ┃ ┃ ┃ 季長 ┃ ┃ ┃(季信、堯季等?) 季綱 ┃ ┃ (安藤)貞秀(五郎?) 季道 ┃ 季盛(貞季・堯秀) ┏━━(不詳)━━┫ 元親? (不詳) (季長の従兄弟?)┃ ┣━━━━━━┓ 五郎三郎宗季 又太郎季長 安藤太郎愛秀 (季久・宗久) (貞季・資長) ┃ ┏━━━━┳━━━┫ 堯勢 (異伝) 家季 師季(高資・高季) ┏━━━┫ ┃ ┃ 能季 貞季 ┃ 法季(教季) ┃ ┃ ┃ (異伝) ┗━━━━━━━→┃←━━━━━━━━━━━━━━┛ ┏━━━━┻━┳━━━━━━━━┳━━━━━━┓ (潮潟)道貞 (横木)豊国 (上国・湊)鹿季 盛季 ┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━┓ 重季 成季 (下国)康季(泰季) (上国)教季 ┏━━━┻━━━━━━━┳━━┓ ┃ ┣━━━━━┓ (異伝) (下国)家政 政季 惟季(堯季) 定季 義季 尋季(忠季の養子) ┃ ┃ ┃ │ (松前藩家老下国氏) 昭季 恒季 政季 ┃ ┏━━━━━┫ 宗季 (檜山)忠季 女┰武田信広 (近時学説) ┃ ┃ ┃ (湊)沙彌寂蔵(兼季?) 宣季 ┃ ┃ ┃ ┃ 尋季 (蠣崎)光広 忠季 定季(堯季) ┃ ┃ ┃ ┏(異伝)━━┛┃ ┣━━┓ ┃ 沙彌浄宗 友季 ┌─┬─┨ ┃ 棟季 義広 ┃ ┃ │ │ 女────┰ 舜季 ┃ □ 堯季 │ 友季 ┏━━╋━━┓ 季広 ┃ ┃ 茂季 ←── 茂季 友季 愛季 ┃ 銀宗 (檜山) ┃ ┃ ┏━━┫ (松前)慶広 ┃ 舜季┰女 ┃ (秋田)実季 業季 ┃ 貞季(定季) ┃ 通季(高季・道季) ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 俊季 ┃ 宗季 ┣━━┓ ┃ ┃ (松前氏) ┃ 通季 愛季 ┃ ┃ 知季(友季) ┃ ┃ ┃ (盛岡藩士) (秋田氏) 沙彌洪廓(堯季) ┃ ?季 ※ 近時学説は、「市川湊文書」等の史料による復元
注釈 [編集]
- ^ 現地で蝦夷の管轄に従事する者への蝦夷系譜づけは沙汰職の所職自体に「国家施策上負わされた属性」であるとする見解がある(遠藤巌 76年)。
- ^ 大石直正は、安東氏(安藤氏)の性格として、北東北の海岸に分布する「党的」武士団であり、牧畜・狩猟・漁撈・交易をつかさどる、西海道の松浦党にも比すべきものであると指摘している(大石直正 90年)。
- ^ 安東氏に服属していた道南の蠣崎氏の居城上ノ国勝山館では、商品としての鉄の精練・鍛冶や、アイヌの人びとむけの狩猟具・漁撈具の製造も行っていた。
- ^ 煙山英俊は、陸奥国の太平洋岸出身と推察している(入間田宣夫ほか 99年)。
- ^ 『秋田家系図』などによると応永年間(15世紀初頭)
- ^ 佐々木慶市は、二家分裂以前には基本的に「安東」と表記した例はないことから「安藤」が本来の表記で、下国家が本家筋の上国家に対抗して「安東」と表記して「東海将軍」の官職名をそこに含意したものであると論じている(佐々木慶市 89年)。
- ^ 加藤民夫は、季久-貞季-盛季と続く藤崎系(下国家)と、季長-宗季-(甥)高季-兼季と続く大光寺系(上国家)の二家分裂を推定している(塩谷 82年)。
出典 [編集]
- ^ a b c 東北大学付属図書館秋田家史料目録解題
- ^ a b 青森県市浦村 04年
- ^ 小口雅史ほか 2000年
- ^ 佐々木慶市 89年
- ^ 関幸彦 98年
- ^ 小口雅史 95年
- ^ 函館市役所「函館市史」デジタル版通説編第1巻第3編古代・中世・近世
- ^ 財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構「アイヌ史における二大改宗騒動」佐々木 馨 北海道教育大学函館校教授講演
- ^ a b c d e 海保嶺夫 96年
- ^ a b 村井章介他 97年
- ^ a b c d e 村井章介他 02年
- ^ a b c d e f g 入間田宣夫ほか 99年
- ^ a b 『十三湊遺跡発掘調査報告書』 青森県教育庁
- ^ a b 塩谷順耳 87年
- ^ 遠藤巌 89年
- ^ 入間田宣夫 01年
- ^ 海保嶺夫 76年
- ^ a b c 塩谷順耳ほか 01年
- ^ 遠藤巌 91年
- ^ 小和田哲男 07年
- ^ 今村義孝 69年
参考文献 [編集]
- 青森県市浦村編 『中世十三湊の世界』 新人物往来社、2004年、ISBN 4404032218
- 今村義孝 『秋田県の歴史』 山川出版社、1969年、ISBN 463423050X
- 入間田宣夫他編 『北の内海世界』 山川出版社、1999年、ISBN 4634607506
- 入間田宣夫 「北方海域における人の移動と諸大名」網野善彦他編 『北から見直す日本史』 大和書房、2001年、ISBN 4479840567
- 遠藤巌 「中世国家の東夷成敗権について」『松前藩と松前 9号』、松前町史編集室、1976年
- 遠藤巌 「安藤・秋田氏」『地方別日本の名族1東北編Ⅰ』、新人物往来社、1989年、ISBN 4404015364
- 遠藤巌 「ひのもと将軍覚書」『小川信先生古希記念論集 日本中世政治社会の研究』、1991年
- 大石直正 「北の海の武士団・安藤氏」網野善彦編 『海と列島文化1 日本海と北国文化』 小学館、1990年、ISBN 4096270016
- 小口雅史編 『津軽安藤氏と北方世界』 河出書房新社、1995年、ISBN 4309222706
- 小口雅史ほか 『新版県史 青森県の歴史』 山川出版社、2000年、ISBN 4634320207
- 小和田哲男 「湊騒動の顛末」『名城と合戦の日本史』 新潮社<新潮選書>、2007年、ISBN 9784106035807
- 海保嶺夫 『エゾの歴史』 講談社、1996年、ISBN 4062580691
- 海保嶺夫 「松前家臣団の成立-道南における中世的世界の解体過程-」『松前藩と松前 9号』、松前町史編集室、1976年
- 佐々木慶市「津軽安藤氏の研究」『中世東北の武士団』 名著出版、1989年
- 塩谷順耳 『中世の秋田』 秋田魁新報社、1982年、ISBN 4870200171
- 塩谷順耳 「安東氏とその時代」田口勝一郎責任編集『図説秋田県の歴史』 河出書房新社、1987年、ISBN 4309611052
- 塩谷順耳ほか 『新版県史 秋田県の歴史』 山川出版社、2001年、ISBN 4634320509
- 関幸彦 『蘇る中世の英雄たち』 中央公論社、1998年、ISBN 4121014448
- 村井章介・佐藤信・吉田伸之編 『境界の日本史』 山川出版社、1997年、ISBN 4634618907
- 村井章介・斉藤利男・小口雅史編 『北の環日本海世界』 山川出版社、2002年、ISBN 4634605309
読書案内 [編集]
- 伊藤清郎・山口博之編『中世出羽の領主と城館』高志書院、2002年2月、ISBN 4-906641-49-0
- 遠藤巌 「戦国大名下国愛季覚書」羽下徳彦編『北日本中世史の研究』吉川弘文館、1990年
- 遠藤巌 「戦国期檜山城主下国家関係の一史料」『秋大史学』38、1992年
- 遠藤巌 「音喜多勝氏所蔵八戸湊文書覚書」『弘前大学国史研究』107、1999年
- 遠藤巌 「湊學氏所蔵秋田湊文書」『青森県史研究』3、1999年
- 加藤民夫「中世檜山郡の形成過程」『能代山本地方史研究』4、1987年
- 国立歴史民俗博物館編 『中世都市十三湊と安藤氏』 新人物往来社、1994年、ISBN 4404021518
- 塩谷順耳 「北羽戦国大名の趨勢」 『秋大史学』16、1968年
- 渋谷鉄五郎 『秋田「安東氏」研究ノート』 無明舎出版、1988年、ISBN 4895442039
- 田端宏・桑原真人・船津功・関口明 『新版県史 北海道の歴史』 山川出版社、2000年、ISBN 463432010X
- 土崎港町・秋田市合併五十周年記念誌編纂委員会 『土崎の史誌-土崎港町・秋田市合併五十周年記念誌』 土崎史談会、1992年
- 森山嘉蔵 『安東氏―下国家400年ものがたり』 無明舎出版、2006年、ISBN 4895444244
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- よみがえる十三湊遺跡 国立歴史民俗博物館
- 十三湊遺跡発掘調査報告書 青森県教育庁
- 蘇る中世都市 十三湊 青森県五所川原市役所
- 安東氏発祥の地 青森県藤崎町役場
- 「湊城跡発掘調査」通信 秋田市教育委員会
- 「函館市史」通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 北海道函館市役所
No comments:
Post a Comment