Saturday, December 29, 2012

最高!『復活』戸は輪廻転生の扉のことであった!

実生活の体験ばかりで生きてきて本を読まない者にも_真実の扉がギイと音を立てて開くのだった!

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おい、おい、ずいぶん古い扉だなあ、油ささないといけないよ、亀六さんや。ま、のろのろ速度だろうと、間に合って良かったでないかい?
あ、油だけどね、まずは、おまえさんの脳味噌の錆を多少はとってからだよ。でないとね、扉に油さすだけでは、良い教えや情報を受けつけない事態になるんだ。扉だって開けようとしても開かなくなるよ。なんせ、ベールに隠されてきた扉だからね、年期がはいってるから。

受けつけない事態ですか? 御隠居、自体の方の不都合はどうなるんでぇ?

なんだい、おまえさん、体でも悪いのか?

いやぁ、ね、御隠居は年いってますんで、開けられるのかなぁ...とね、心配したんですよ。

何言ってんだろうね、おまえさんは。脳と心がしっかりしてれば、いけるんですよ。あちらが立たなくても、真実を受け入れる勇気があれば年など関係ありません。

へぇ、合点しました。ですが御隠居、油をさすって、こんな風に、、、画面にですかぃ?

油と言ったのはだね、素直な気持ちで読みながら、湧いてくる正直な自分の声に耳を傾ける、そういう潤いを保つことを油に喩えたからだよ。


御隠居、それが一番むずかしいかもしれませんねぇ...アマニ油でも飲んで出直して来るとしますか。____と___立つのを引き止めて_______

まあ、そう急かずに、一度目を通してごらんな。あそこの、茶屋コスモポリタンの掲示板に乗ってるのが1で、これは続きらしいが、これを読んでから1でも良いようだ。


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ミケランジェロの「最後の審判」

「イエスの復活」については、多くの謎が残されています。
にも関わらず、世界の人々は、その謎を置き去りにして、このことを信じているようです。
なぜ解明しようという大きなうねりにならないのでしょうか。
そこに出てきたのが、「イエス生まれ変わり説」という異説。
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さて、前の記事の本題です。
ダン・ブラウンの小説「天使と悪魔」、「ダ・ヴィンチ・コード」を引き合いに、イエス・キリストの謎にアプローチする、という記事です。

歴史は、どのように決まっていくのか-----
残念ながら、どんな場合でも、事実によって決まるとは言えないのです。
それは、当事者たちの都合(何らかの利益が関係していることが多い)によって決まっていくことが多いのです。

卑近な例で言うと、社史の編纂の例があります。
上場企業では、創業うん十年の記念事業として、かなりの予算をかけて社史を編纂したりします。社史編纂委員会を組織し、何年もかけて、過去の歴史を調査するのです。

社歴の旧い大手企業の場合などは、収集する資料も膨大な量に上り、編纂に何年もかかるため、出来上がった頃には、社史編纂委員会の“生き字引”たちは、この世にいなかった、なんてことがままあるのです。

当時の資料が皆無で、関係者たちも死去してしまった場合には、トップの「あの時は、こういうことにしよう」という“鶴の一声”で決まってしまいます。
それが事実であるか、そうでないかは、実は、それほど重要ではないのです。そのような事実があったことにしたほうが、株主の受けも良くなるし、なにより社員たちのインナープロモーションになるのです。
事実、「外に出せないような恥部」であったりするのですが…。

「なるほど、歴史はこうして決まるのだ」と。
こうした場面を見ると、人間臭さを感じると同時に、「事実は、作られもする」ということが分かります。
「嘘は、会長が墓場まで持っていく」ので、結局、会長亡き後は、それが既成の事実となるのです。

人々から猛反発を食らうことを覚悟し、利害関係者たちの事情を斟酌せず、徹頭徹尾、冷徹にならなければ、本当の事実は永遠に分からなくなってしまうことがあります。いや、このことは世間では本当によくあることです。

たとえは不適切でしたが、どうも、キリストの血脈、あるいは復活について、このようなことが起こっているのかもしれません。
今回は、それを少し掘り下げてみましょう。

元祖イルミナティであるバーバリアン・イルミナティの公式サイトに、「イエス・キリストの血脈-復活」についての記事があります。その役半分を抜き出してつなげたものです。
以下、翻訳。

血脈の暗号
Illumination: the Secret Religion - The Bloodline Code

暗号は、しばしば、弁証法を混合した単一の単語に収斂されることがあります。
「Sangraal」(古フランス語)という言葉の例は、「最後の晩餐」の聖餐杯は、もっとも良い説明の機会を提供しています。
もっとも初期の聖杯原稿においては、それは、最初に聖杯(文学、宗教または歴史の未知の神秘的な実体)について言及するのに使われた複合語"sangraal"でした。

Sangraalは、古フランス語ではニつの形に分解できます。
聖杯の物語の最初の言語では、San Graal (Holy Grail=聖杯) または、 Sang Raal (王族)という2ワードになります。

この"sangraal"という複合語を解釈するには三つの方法があります:
1)「san graal」、「sang raal」というように二つに分けられた言葉が、等しくこの用語の意味を伝えており、それがひことつに合成されたと考える。
2)この二つに分けられた言葉が同じ意味を持つ、という考え方。san graal = sang raalということです。
3)いわゆる、この言葉が二つの正反対の意味を持っていることを理解する方法として、「 san graal」(テーゼ)は、sang raal(アンチテーゼ)という反対の意味である、とするもの。

謎解きの草分けとも言える本
「The Holy Blood and the Holy Grail(邦題:レンヌ・ル・シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯)」の作者は、「sangraal」という言葉を理解するための妥当な方法として、2)の解釈を選んでいます。
そして、ダン・ブラウンのベストセラー小説
「ダ・ヴィンチ・コード」の中では、この解釈が使われています。



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(管理人:
世界中で4000万部以上売り上げたダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」が、
「The Holy Blood and the Holy Grail(邦題:レンヌ・ル・シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯)」からの盗作だ、と作者の作者、マイケル・ベイジェントMichael Baigentとリチャード・リーRichard Leighが版元のランダム・ハウス社を訴えていた。確かに、ダ・ヴィンチ・コードは、レンヌ・ル・シャトーの謎の基礎部分から盗用しているように見えます。
http://today.msnbc.msn.com/id/11589138/ns/today-books/


彼 ら(「レンヌ・ル・シャトーの謎」の著者と、「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」の著者、ダン・ブラウン)は、聖杯の秘密がイエス・キリストとイエ スの妻、マグダラのマリアに遡る不思議な血脈に参照されると主張しています。(イエスが、おそらくダヴィデ王由来の人である、という拡大解釈による)

聖杯に関する彼らの見方では、それは、ヘブライのダヴィデ王の血脈に通じているシンボリックな符号である、ということです。
そして、それは「彼は神ではなく、普通の男であった」という当然の帰結として、イエスには、妻もあり、子供もあったという(クリスチャンにとっては)ショッキングな考えを含んでいます。

この考え方は、
「イエスの復活」がクリスチャンの崩れることのない信念の核となっているにも関わらず、イエスは十字架にかけれられてはおらず、それゆえ、「復活」そのものがありえないということになってしまうのです。

これが本当であれば、「爆発的な暴露」であり、それゆえに、この二冊の本は国際的な成功をおさめたのです。

この理論に関する唯一の問題は、聖杯には、イエス、マグダラのマリアのどんな血脈にも関係がないということです。

真実は、上に書かれた3つの可能性のうちの
3)であり、すなわち、「王族の血脈」理論は、聖杯の事実の正反対のものである、ということです。
聖杯が関係する、まさしく最後のものは、血脈であり、王族のファミリーであり、そのファミリー以外の者たちを排除する、という遺伝による反実力主義の原則です。

最初に、このコード(暗号)を構成したイルミナティの独創的なメンバーは、研究者たちを完全に間違った方向に導くことに成功したのです。
研究者たちは、「イエス理論」によって、みごとに偽の誘導に幻惑されてしまったので、時間を果てしなく浪費し、本棚に本を加えていっただけでした。

イエスの墓、イエスの家族、イエスの骸骨、イエスがはりつけから逃げた後の放浪など、すべてが探求し尽くされています。また、「マグダラのマリア理論」も同じように研究されています。

しかし、そのいずれもが聖杯の真実に何ら関連付けられていないのです。
「マイク・ホックニー」による
「アルマゲドンの陰謀」(The Armageddon Conspiracy)は、聖杯理論を完全に異なった視点で扱っています。
真剣に聖杯を研究しようと考えている方は誰でも、この本を出発点とすることは適切なことです。
(この本はwebからなら、無料でダウンロードできます。こちらから。pdf形式です。ただし、リンク先は元祖イルミナティのサイトです。管理人は気に留めませんが、どうにも気が進まない、という方は控えたほうがいいと思います。別に危険はありませんが


暗号の謎解き

真実に迫るには、とても重要なポイントがあります。それは以下のようなことです。
バーバリアン・イルミナティが神秘を解き明かすときの心得

聖杯の探索においては、三つの深遠なる秘密があります。そのうちの二つは、偽者であり、本当の秘密を保護するために注意深く設計されたものです。
その二つの偽の秘密は、同時に定式化されました。何百年もの間、支配的な協議会によって。

二つの偽の秘密は、巧妙で、それぞれは、ユニークで、説得力があってセンセーショナルな解決策を持っています。
二つの偽の秘密には、本当の秘密より、ずっと公共的(誰でも入手できる)な手がかりがあります。すなわち、その手がかりは、ずっと見つけやすくなっているのです。ただし、解決するのは簡単なことではありませんが。
 
本物の秘密を含むそれぞれの秘密は、いつでも手がかりを追加できるという意味で、いかようにも発展させることができます。特に話と絵を通して。 
しかし、誤った手がかりは、そのまま残っています。

(二つの偽の秘密を含む)三つの秘密の間には、交差ポイントがあります。
三つすべてが実は共通のことを含んでいる、という確かな事実。

真実の探求者が、偽の秘密(二つの偽の秘密は、本当の秘密と同じように、無視することができないくらい重要なのです)の罠に嵌ったとしても、その交差ポイントで正しい選択をすれば、再び本当の秘密に至る道に立ち戻る機会を持つことができるようになっています。

その探求者が、偽の秘密を掴まされ、必死になって解明しようと積み重ねてきたことを、すべて捨て去る力がある場合にだけ、正しい選択をすることができるのです。
事実、これはテストの一部なのです。

実際のところ、ほとんどの探求者が、積年の労を思い切りよく捨て去ることなど、考えるだけでも嫌になるでしょうから、結局は、誰も正しい選択ができないのです。
特に、自分が真相の解明に近づいていると信じていれば、なおさらのことです。

そうしたところに、新たな罠があるのです。

あと一歩のところに本当の秘密があるのに、今までの労を捨てるのが惜しくなって、次から次へと偽の秘密を渡り歩くようになってしまうのです。
結局、「偽の輪」の中から出ることができず、不幸な結果となった探求者は多いのです。

本当の秘密の解明に大きな成果を上げることができた人は、コンタクトを確実に受けることでしょう。しかし、そのときは、その人が、敵側のために働いていないと確定するため、長い審査の過程を通り抜けなければならないのです。

敵は、本当の秘密に到達する最終ステージのワンステップに入り込んでくるのです。
敵が最終段階にアクセスするのを防ぐことは、必要、かつ最も優れた対策なのです。

あなたの現在の状態は、以下のように分類されます。

あなたは、偽の秘密の一つに注目すべき前進をしています。
あなたは、交差ポイントにあなたを集中力を向けることができる材料に遭遇しましたが、あなたはまだ正しい方向に進んでいません。

あなたは、秘密の解明ができるだけの必要なスキルを持っており、それがために、前進することになるのですが、他の人々は、そのようなスキルを持っているには持っているのですが、偽の秘密に対して実りのない追究を続けており、前に進むことができないでいます。

偽の秘密は、とても魅惑的ですが、何ら価値のないものです。
誰も、まだ偽の秘密を解明していないのです。

それらには本当の秘密のものと同じくらい度肝をぬくような意味があって、中には、それらが本当の秘密より、ずっと魅惑的であると思う人がいるかもしれません。
しかし、それらを立証する本物の証拠など、何一つ出てこないのです。そうなると、完全な思惑というしかありません。

ある秘密の方法で、嘘の秘密の糸口を示しているとされる「でっち上げの」絵があると想像してみてください。
探求者は、その絵の中に込められた暗号的な意味を解読した場合、自分がより真実に近づくことができたに違いない、と思いこんでしまいます。
しかし、その事実とは、それが「偽の真実」であったという事実に一歩近づいたに過ぎないのです。

その探求者は、どうやって、そのことを知るのでしょう。これが、常にジレンマとなっているのです。

他方、本当の秘密は、疑う余地のない証拠に関係づけられているものなのです。
もし、この証拠がなかったとしたら、ずっと昔に、その秘密は、信じられないものとして片付けられていたことでしょう。

以上は、本当の秘密に到達するために、とても大切なことがまとめられています。
真実の探求者は、上の不可解で難しい声明を、より高いレベルで理解していただくことを願っています。

上の(囲み記事の)声明の中で、聖杯を求めようと探索しているとき、本当の光が偽の秘密に当てられたとしても、どんな光もはじかない、と言いました。
しかしながら、また、私たちは、偽の秘密が本物の秘密と同じくらい無視できない存在であるとも言いました。
このことは、イエスの血脈理論に対しては、信じられないくらいの注意を払わなければならない、という意味でもあるのです。

私たちは、秘密を解き明かそうとするとき、その秘密自体が偽物であれば、どんなに立証しようとしても、本物の証拠は出てこないと言いました。
また、偽の秘密と知らずに、それを解き明かすための本物の証拠を見つけた、と勝手に思いこむことは危険な賭けであるとも言いました。
このことは、しっかり理解する必要があります。

聖杯の謎を解き明かそうと、そこに光を投げかけようとすることについては、本当に注意しなくてはならないと、私たちは、ここで再度、強調したいと思います。

すなわち、聖杯に関する三つの秘密のうちの二つは偽りであり、特定の文脈において、まったく根拠のない思惑に過ぎないのです。
しかしながら、(本物以外の)他の秘密が、すべて偽者であると考えたときに初めて、聖杯との関係が浮き上がってくるのです。これは時間が経つとともに、その方向に自然に決定付けられていくものなのです。

事実、(偽物の)両方が聖杯の文脈の外では、完全に本物であるかのように見えることかあります。
つまり、偽物の役割は、そこに秘密あるかのようにでっち上げることより、本物の秘密から遠ざけて、隠してしまうことにあるのです。

聖杯の真実を、もっともらしく偽装する唯一の方法が、この二つの大いなる偽物を、正統的な秘密の数々の中に埋没させてしまうことです。
この方法は、このような何重にも重なった秘密を構成した才気によって決められたことです。

まさに、それが正統的であるので、秘密を解明する本筋から、探求者を引き剥がしてしまうのです。
言い換えれば、正しい経路を彷徨った聖杯の探求者は、絶望的な幻想を追い求めることはしなくなるのです。いくらやっても、聖杯に関係付けられることは発見できないわけですから。

聖なる血脈、聖杯、
「The Holy Blood and the Holy Grail(邦題:レンヌ・ル・シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯)」、そして「ダ・ヴィンチ・コード」の成功は、いかにして聖杯の秘密を理路整然と系統立てて、彼らの「タスク」を完遂したかを示すものなのです。

「誰もまだ、偽の神秘を解決していません。それどころか、偽の秘密には本当の神秘と同じくらい度肝をぬくような意味があって、それらは、本当の秘密より、ずっと魅惑的であると考えたりする人たちが出てくるかも知れない」と、私たちは言いました。

しかし、私たちは、
「The Holy Blood and the Holy Grail(邦題:レンヌ・ル・シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯)」の著者が、偽の秘密のうちの「一つ」を解き明かしたものと考えています。
彼ら作家たちの結論は、「血筋」に関係している、というものです。

それが、マグダラのマリアを含めて、イエスとダヴィデ王家というのは、本質的に正しいです。

しかしながら、彼らは完全に秘密を解決したというわけではありません。
彼らは、イエスとマグダラのマリアの墓を発見していないし、イエスには2つの骨があるのではないか、ということについて調べていないからです。(イエスの私たちの最近の記事を注意して読んだどなたでも、私たちがそれに参照していることに分かるでしょう)

この二人は、主な血脈を受け継いでいるすべてのメンバーが、それぞれ誰であるのか特定してしませんし、イエス・キリストの時代以来、
「※復活の時を待っているダヴィデ王の名前をいただく」人々すべてのリストを提示していません。
今日まで、そのような人間は存在しています。時至れば、やがて私たちはその問題に立ち戻ります。

※復活の時を待っているダヴィデ王の名前をいただく
の意味:
イスラエルの王・預言者ダヴィデは、救世主の登場を予言しており、それがイエス・キリストの復活であり、イエスはダヴィデの血を引いた子孫である、という説。
【分かりやすいダヴィデ王】


真実の聖杯物語と、偽の聖杯の血族との間には、秘密が二つに分離されたことによって生じている混乱の大半の原因となった大きな交差ポイントがあります。
その鍵となる交差ポイントは、まさしくダヴィデ王の息子、ソロモン王に他なりません。それは古代イルミナティの重要人物です。
まさにソロモン王は、この分離された二つの秘密の両方に属しているので、絶望的なまでに複雑に絡み合って、混乱を生じているのです。

聖なる血と聖杯は混乱の度合いを反映しています。
ソロモン以外に共通するものが何もないとき、ダヴィデの血脈と同じ文脈の中に、カタリ派(12~13世紀、バーバリアン・イルミナティが創ったキリスト教新宗派)、テンプル騎士団、フリーメーソンなどが属することになるのです。

この誤りは、大衆本の多くで繰り返されています。このことが、(バーバリアン)イルミナティが、不吉なユダヤ人の秘密結社であるという馬鹿げた話の基礎となっているのです。

カタリ派を含むグノーシス派は、ヤハウェを捨てて、公然と批難しました。
彼らはリーインカーネーション(輪廻転生)を説いたのです。

彼らは、イエス・キリストを拒絶したか、あるいは人類を救うために真の神が使わした超天使的な存在としてイエスを見なしたかです。

イエスは、デミウルゴスの不吉な物資世界に入らなかったので、実体のない純粋な霊魂としてあったのです。イエスは、完全な人間の存在として入らなかったので、十字架にかけれられなかったし、復活もしなかったのです。

泣き叫ぶこの邪悪な世界と悲痛に溢れた世界の創造主は、
デミウルゴスでした。それは、真の神でありません。
デミウルゴス、サタン、
レックス・ムンディー、世界の王、地球の創造主、ヤハウェは邪悪な存在でした。
そこでは、信頼は重要でありませんでした。 知識だけが重要だったのです。聖職者も必要とされませんでした。

小説
「ダ・ヴィンチ・コード」の「聖なる血(sang raal=サングリアル=聖杯)」のパートは、イエス、マグダラのマリア、ダヴィデの王家につながるユダヤ人の物語です。「ダ・ヴィンチ・コード」の「聖杯(サングリアル)」のパートは、ソロモン王、カタリ派、テンプル騎士団(後に、フリーメーソンが、ここから出てきます)につながるグノーシス派の物語です。

まさに、
「The Holy Blood and the Holy Grail(イエスの血脈と聖杯)」のタイトルそのものが、混乱を秘めることとなり、常に分けられている二つの概念に関係付けられているのです。【参考】:解読できる聡明さを備えた者だけに読む資格が与えられる!(中巻P84)の解説
ソロモン

ソロモンはテンプル騎士団とフリーメーソンにとって、重要な人物です。
彼は、ダヴィデ家の王でした。
ソロモンが啓明の者(Illuminatus)であり、グノーシス派の教理の信奉者であったことを知っている者だけが、この見かけ上の混乱を解決することができるのです。

一方、マイク・ホックニーの
「アルマゲドンの陰謀」(The Armageddon Conspiracy)(マイク・ホックニーはイルミナティのゴースト・ライター。イルミナティのサイトからなら無料でDLできます)は、秘密の解明の正しい出発点となります。

それは、グノーシス主義が非常に古いので、カインとアベルの聖書物語の中でコード化(暗号化)さえされているのを、分かりやすく実証しています。
アベルは、ヤハウエの「英雄」であり、カインは、真実の神のグノーシス派の英雄です。

ソロモンは、ヤハウェに会うに十分なほど賢かったので、ダヴィデの王の地位に就くのは当然だったのです。
(ダヴィデの王とは、ダヴィデの血脈にある王)

聖杯の本当の秘密を理解しようというのであれば、ユダヤの要素からグノーシス派の聖杯伝説の要素を切り離す必要があります。
そう、「ユダヤの王、ソロモン」から、「啓明の者(Illuminatus)・ソロモン」を分離しなければ分からないのです。

どうも、人々は、ソロモンが
マグスと見なされていたという事実に気がついていないようです。
マグスとは、秘密の学問に精通している男であり、魔術を使って、最強の悪霊を呼び出し、命令を出すことを習得している男のことです。

ソロモンは、宗教儀式とオカルト儀式を創りだしました。
中世において、ソロモンは、
「the Clavis Salomonis(The Key of Solomon=ソロモンの鍵)」として知られていた魔術と魔法の実用書である「グリモワール(grimoire)」の本当の著者であると考えられていました。

彼は、すべての中で、もっとも強力な魔力を持つリングを持っていたと考えられています。いわゆる
「ソロモンの指輪」のことです。1 Kings Chapter 11(1Kings第11章)
※「1Kings」は、ユダとイスラエルの王様の履歴を語っている2冊の旧約聖書の第一


1)ソロモン王は、ファラオの娘のほかに、モアブ、アンモナイト、エドム、シドン、ヒッタイトの女性など、多くの外国の女性を愛していました。

2)主は、これらの国々(上に挙げた国々)に関わり続けていました。その主がヘブライの民に言ったこと:
「あなたは、それらの中にいは行かず、それらも、あなたの中には来ないでしょう。
彼らが確実に彼らの神のものの後にあなたの心から、顔を背ける」。(原文に忠実)

3)ソロモンには、700人の妻、姫、および300人の妾がいました。 そして、彼の妻たちは、彼の心に、そっぽを向いていました。

4)ソロモンは、やがて歳をとっていき、彼の妻たちが、他の神々が現れた後、ソロモンの心から離れていきました。
ソロモンの心は、彼の父・ダヴィデの心のような、全体が神のようなものではありませんでした。

5)ソロモンは、Zidonianの女神、アシュトレド(イシュタルのこと。Ashtoreth=愛と豊穣の古代フェニキア人の女神)の後を追い、また、アンモナイトが忌み嫌っていたミルコム(Milcom)の後を追っていったのです。

6)そして、ソロモンは、主を見ていながら、不吉なことを行ったのです。彼の父、ダヴィデがやったように、主の後を追わなかったのです。

7)それから、ソロモンは、エレサレムの前の丘の上に、モアブが忌み嫌っていた
ケモシュ(Chemosh)のための一段高い場所を造ったのです。
そして、同じく、アモンの子供たちが嫌悪していた
モレク神(Molech)のための高い場所も造ったのでした。

8)なし

9)ソロモンの心は、このように主から離れてしまったので、主はソロモンに怒っていました。主はイスラエルの神で、過去に二度、ソロモンの前に姿を現しているのです。

10)そして、主はソロモンに命令を出したのです。
「あなたは、これらの神々を追いかけてはいけない」と。
しかし、ソロモンは主の命令に従わず、異端の神々を追いかけたのです。

11)主はなぜ、ソロモンにこのようなことを言ったのか。
「このことが汝の魂の中にあり、私が三つの命令を持って、汝と私との間に契約と法を交わしたにも関わらず、それを守らないので、私は王国を引き裂いて、汝の家来にそれを与えよう」。

12)「このようなことにもかかわらず、私は汝の父、ダヴィデに免じて、それをしなかったが、今、汝の手から、それを取り上げよう」。


この物語によると、ソロモンは(主である)ヤハウェを軽蔑していたので、ヤハウェは二度、ソロモンの前に現れ、ソロモンに直接、命令を与えたが、ソロモンは、これをはねつけてしまった、ということです。

このことにも関わらず、ソロモンと彼の子・
レハブアム(Rehoboam)は、ヤハウェのもっとも聖なる都市、エレサレムを保持することを許されたのです。(そこでは、ヤハウェのもっとも聖なる神殿が立てられており、ヤハウェが神々しい神の存在を維持している聖櫃(約櫃)が収められています)

ほんの少しでも、信じられるような響きがありましたか?

確かに、ヤハウェは、反抗的なソロモン王に、エレサレムを統治させ続けることはしたくはなかったし、聖櫃を守ることも許したくなかったでしょう。

このような偽りの言葉によって隠されている真実は、ソロモン王がヤハウェを嫌っており、この暴君(ヤハウェのこと)に歯向かうほど力が強く、強力だった、ということです。
ただ、彼の息子・レハブアムは、そうではなかったようですが。

イスラエル王国は、ソロモンの死後、息子のレハブアムの治世になってから、
北王国イスラエルの10部族と、エレサレムを首都とする南王国ユダの2部族(ユダと、とても小さなベンヤミン部族の2部族)に分裂してしまったわけです。ベンヤミンの部族

今までに聖書の歴史の中で、最も特筆すべきエピソードの1つを深く探求した研究者が、全くと言っていいほど見当たらないのは異常なことです。
ベンヤミン部族(初代のイスラエル王、サウルから来ています)と、それ以外のイスラエルの11部族との間で繰り広げられた本格的な内戦は、ユダ部族(ダヴィデ王と、ソロモン王から来ています)によって導かれたものです。

ソロモンからイエスまでについては、別の記事で書きます。
復活か、それとも生まれ変わりか

以下の
[イエスの復活]に続いて、ヨハネ[20章14-16]には、このように書かれています。マリアはイエスが立っているのを見た。彼女は、それがイエスだとは分からなかった。
イエスは、マリアに言った。
汝はなぜ、そんなに悲しんでいるのか?
誰を探しているのか?

マリアは、最初、てっきり、それが庭師だと思っていたが、もしや、と考えて“その者”に尋ねた。
「もし知っているなら、イエスをどこに横たえたのか教えてください。そうすれば、私はイエスを持ち去るつもりです」。
その庭師(=イエス)は、マリアにこう言った。
「マリアよ」。

マリアは、振り返って、“その者”に「
Rabboni!」と言った。

(Rabboniはアラム語で、先生、師匠というような意味。キリストが復活したときに、マグダラのマリアがそう叫んだ、と「ヨハネによる福音書」にある)。

このときの情景から分かること。
それは、マリアは、その庭師の話し方、彼の癖、および彼の存在で、それがイエスに違いない、と思ったのです。
これは、クリスチャンの福音書、キリスト教のもっとも重要な部分です。

このことは、本当に驚くべきことです。
それは、キリスト教の信念の中心にあることが誤りである、というもっとも明確な証拠を示しているのではないか、ということになるからです。

イエスが復活した、というより、むしろ生まれ変わったのでないか、という考え方が、どんな疑いをも乗り越え、十二使徒(の話)の経緯が、このことを、さらに立証しているように見えてきます。

イエスの復活について、根本から事実を捻じ曲げられたのではないか、という疑いがどうしても起こってきます。
それについての更なる証拠を、以下に提供します。
[Mark 16:12]
And after that he appeared in another shape to two of them walking, as they were going into the country.
(二人が歩いていたところに、イエスが別の姿になって現れた…)

「別の形」になって現れたですって?
前のイエスの体とは別の姿になった、ということです。--つまり、それは生まれ変わり。
[Luke 24:15-16]
原文:
And it came to pass, that while they talked and reasoned with themselves, Jesus himself also drawing near, went with them. But their eyes were held, that they should not know him.

"But their eyes were held, that they should not know him?"
なにゆえ?
イエスは、何を隠さなければならなかったのでしょう?
それとも、イエスは、心理ゲームをやっていたのでしょうか?

なぜ、イエスは、堂々と自分の姿を見せることが気が重かったのでしょうか。かえって、イエスが気にかけていた人たちの心の中に疑念を生み出すことになってしまうでしょうに。
もし、イエスが老体のまま復活したとするなら、誰でもイエスの姿を知っているわけですから、こんなことは起こらなかったのです。

このこともまた、イエスが生まれ変わったので、別の新しい体にイエスが入っていたと示していることにはなりませんか?

(十二使徒のひとり)
トマスの疑いが、もっともらしく思えるのは不思議でも何でもありません。トマスの前に現れた人物が、イエスと思しき何者にも見えなかったので、彼は自分の目を信じなかったのです。参考:
「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。 
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 

「トマスの疑い」は、タイトルを変えて「イエスとトマス」ということになっている。)
[ヨハネ 21:4]
原文:
when the morning was come, Jesus stood on the shore; yet the disciples knew not that it was Jesus.
(朝が来たときの、イエスは岸辺に立っていました。 しかし、弟子たちは、それがイエスであると分からなかったのです。)

なぜ? 
彼の外観が完全に異なっていたからです。彼が生まれ変わりの結果、新しい体を持ったという事実。
[ヨハネ 21:12]
原文:
Jesus saith to them, "Come, and dine." And none of them who were at meat, durst ask him, "Who art thou?", knowing it was the Lord.
(イエスは、使途たちに言った。「食事に、いらっしゃい」。
ところが使途の誰も、彼の求めに応じなかった。
それが主であるのに、「あなたはどなたであるか?」と尋ねたのです。)


もしイエスが、前と同じ姿で使徒たちの前に現れたのであれば、なぜ使途たちは、その人間が何者であるか、(イエス)彼に尋ねたのでしょうか。
イエスは、前の姿で現れたのではなかったのです。
マグダラのマリアが、イエスのことを庭師と間違えたように、それは、イエスであると同定できる姿ではなく、彼の前の外観とは、まったく違っていたからに他ならないのです。

福音書が「絶対確実なもの」と主張している人たちに、上に挙げたようなことについて、合理化して説明してもらえるよう頼んでみてください。
福音書が「絶対確実なもの」と言っている人たちに、聖書の中のこれらの記述が、イエスの身体的復活を表している、というより、むしろ生まれ変わり(輪廻転生)の証拠としか見なすことができないことについて、整然とした論拠を求めてみてください。

身体的な復活が本当に起こったら、イエスを見分けるのに、苦労などしなかったはずです。

このような「大きな(証拠の)もみ消し」は、どこにあるのでしょうか。

イエスが、マリアと婚姻関係を結び、子供までいたこと、そして身体的な復活は、どこを探してもなかった、ということが事実としか考えられない話の転結は、どうしたことでしょう。
しかし、イエスは生まれ変わった…。

いずれにせよ、キリスト教には、この両方が致命的になるのです。
クリスチャンの人たちは、「輪廻転生」という考え方を、あざけり笑います。
そのことは、聖なる聖書の中で、クリスチャンたちを輝かしく照らすのです。

それは異常なことではありませんか?
クリスチャンの100パーセントの人たちが、自分たちが信じていることについて、あいまいさが残されているにも関わらず、それを明確にすることができないでいます。
このことは、彼らの信仰を墓に葬るようなものなのです。そして、なんと空しいと感じるようになるでしょう。

クリスチャンは、イエスの真実について基本的なことを理解していません。
クリスチャンのうちのほんのわずかな人たちしか、その神聖な原文を手にとって詳しく読んでみようとしません。
その神聖なテキスト(聖書の文言)を持っている人たちは、あまりに洗脳されすぎているため、その意味を深く知ろうとせずに、彼らの目の前にあるもの(教会の十字架)を見ることしかしないのです。

聖パウロは、(イエスの)復活の概念がクリスチャンの考えにどれくらい一番重要であるかを示しています:
[Corinthians 15:13-14]
「もし、イエスの“死からの復活”がないということになれば、キリストは二度と現れないことになるのです。
そして、もしキリストの出現がないのだとすれば、私たちの説教は空しいものとなる。
また、あなたがたの信仰も空しいものとなることでしょう」。


聖パウロ、あなたは、まったく正しいのです。
最大の皮肉は、福音書それ自体に、その正しさが含まれている、ということです。
復活は、馬鹿げたことです。真実と悟りから、遠いところに人々を誘導する誤った教えに他ならないのです。

東洋の宗教は、このような致命的な誤りに落ちることがなかったので、とても賢明でした。

復活に関するもっもと多くの通説は、「私たちが、ひとつの魂と、ひとつの物質的な肉体を持っている」とする考え方です。
物理的な肉体は死にますが、魂は不滅なので、生きながらえるのです。
ですので、復活の日に、体は完全に回復する、というものです。

これに対するもう一つの理論は、魂と肉体は同時に死に、魂と肉体は同時に復活するという説です。
いわゆる、この理論においては、魂は肉体とともに滅ぶけれども、肉体によって魂は命あるものに連れ戻されるので、魂は不滅ではない、という考え方です。
魂と肉体が、いったん生あるものとして回復すると、そこから先は両方とも不滅なる。

このことについて、正しく研究しようとすると、イエスの復活理論は、実際に信じられないくらい複雑なものとなるのです。
そして、多くの安易な仮説は、廃棄されなくてはならなくなるのです。

ここで、復活理論の標準的考え方では、なぜ不滅の非物質的で霊的な魂が肉体を必要とするのか、という問いかけに答えなければならなくなるのです。
つまり、魂の実際の機能が肉体の復活によって、もたらされる、ということについてです。

ほとんどのクリスチャンは、復活理論が内在している混乱について、なんら考えを持っていません。
たとえば、彼らは、
最後の審判部分審判(特称判断)の違いをきちんと説明できません。

最後の審判(ときに
全称審判とも言う場合がある)における信念は、ローマカトリックによって保持されています。
すなわち、死においては、それぞれの魂は部分判断を仰ぐことになり、その人の魂の状態(レベル)に応じて、天国に行ったり、煉獄に行ったり、地獄に行ったりすることになるのです。

最後の審判は、死から復活し、その人の魂と肉体が再結合した後に起こることになります。

ローマカトリックは、以下のように説いています。
「最後の審判のとき、キリストは栄光の輝きの中から、すべての天使とともにやってきて、キリストの御前で、それぞれの人が神との関係が真実であるのか、白日の下に晒されることになっている。
そして、今まで生きてきた者たちは、完全なる正義で判断される。
すでに天国のいる者たちは、そのまま天国にとどまり、すでに地獄にいる者たちは、そりまま地獄にとどまり、煉獄にいる者たちは、天国に放たれる」
と。

ローマカトリック教会は、
リンボ(天国と地獄との中間地帯)にある人々の運命については、宗教上の学理的見解を持っていません。
最後の審判に続いて、神の至福と地獄の苦しみは、肉体的な喜びや苦痛があってこそ、完成するのでしょう。

最後の審判の後に、宇宙は新しい天国と新しい地球によって、新しく塗り替えられるでしょう。
死があって、肉体から魂が引き離されて、不滅の魂を手に入れてから、まっすぐ天国に入っていきます。そして、最終的に肉体は復活する、というものです。

しかし、あなたの魂が肉体なしで、天国で存在できるのであれば、最後の審判のとき、なぜ魂と肉体が再結合するのでしょうか?

もし、あなたが百歳で死んだとしたら、あなたは、より若くて健康な肉体を手に入れるというのでしょうか。
なぜ、空気やセックスのない天国で、あなたは肉体の生殖器を必要とするのでしょうか?
なぜ、あなたは、食べたり飲んだりすることが必要なのでしょうか? 
あなたは小便をしたり、排便をしたりする、というのてじょうか? 天国の下水は、どんなものでしょうか?
このどれもが、まったく思いもよらないものです。

また、部分審判によって、あなたがすでに天国に行っているか、あるいは、地獄に行っているのであれば、最後の判によって、大きな影響を受けることはないでしょう。
結局、すでに地獄にいるなら、あなたに起こるもっとも悪いことは何ですか?地獄にいること以上に悪いことなど、ないのではないでしょうか。

部分審判を否定するプロテスタントのクリスチャンは、審判の日の復活の前まで、墓の中で何千年、いや何百万年もの間、自分の体が徐々に腐乱(火葬に付されなかったと仮定して)し、魂は朽ちかけていく状態に身を委ねるしかないのです。

言い換えるなら、あなたの魂は、あなたの肉体とともに、果てしなく長い間、死んだ状態にある、ということになるわけです。

あなたが死んだとき、あなたが生前、望んでいたように天国にまっすぐ行くことはありませんが、「復活」まで、死んだと同じような状態で、あなたは存在し続けることになります。

たいていの人は、もっとも親愛なる人が、つい最近亡くなった場合、審判の前の非存在の“トワイライト・ゾーン“の中にいて、いつか、自分たちも、この不思議な状態の中に加わるのだ、という考えが、とても慰めになっているということに気がついていないかもしれません。
(やがて自分も死んで、その状態の中に入ることになれば、親愛なる人に、そこで再会できるかもしれない、という望みをつなぐ考え方)

パリサイ人のユダヤ人分派の人たちは、魂と肉体が再結合する、という「復活」を信じていますが、魂だけが肉体と離れて独立し、不滅のまま存在する、という考え方は受け入れていませんでした。

一方、サドカイ人のユダヤ人分派の人たちは、復活も、魂が不滅である、という考えも否定しています。
しかし、
シェオル(Sheol。黄泉の国、冥土)と呼ばれている厳格な黄泉の世界で、曖昧模糊としたまま、霊的な存在となって魂が続いていく、という、なにか物悲しくなるような考え方には傾倒していたのです。
この
シェオルというのは、生前、正しく生きた人々を、神が救済してくれるかもしれない、という期待を持って、死者が、茫漠とした空の存在、あるいは幽霊となって存在している「死者の場所」のことです。

イエス・キリストは、公衆の説法では、パリサイ人と同じ立場を取っていましたが、サドカイ人のそれについては、拒絶していました。
タルサスの聖パウロ(パリサイ人にして、ユダヤ12支族のベンヤミン部族のメンバー。自身、バリサイ人として教育を受けた)は、イエスの教えを理解していましが、やがて、「魂は不滅で、天上界を遊泳することができる」というミトラ教のペルシャ-ローマのギリシャ人の教えに、イエスの教えを混ぜ込んだのです。

しかし、実際の福音書に記述されていたことは、「復活」というより、むしろ「輪廻転生」についてのことであることが証明されているのです。
福音書は、イエスがマグダラのマリアと結婚していたという不都合な事実を隠していますが、驚いたことに、クリスチャンの信念の根幹にあるものが、「復活」ではなく、「輪廻転生」であることを何ら隠していないのです。
輪廻転生の理論は、私たちの魂が最終的な啓明・悟りの段階に達して、死と生まれ変わりのサイクルから逃れることができるまで、現世的な肉体を次々と乗り換えていき、魂が永遠の存在であるとする考え方です。

私たちがヨハネから引用したことは、二つのことを言っています。

「イエスの妻である、マグダラのマリアは、イエス復活の後、イエスであると見分けることができなかったこと」。
「マグダラのマリアは、イエスが天上界から、神秘的で超自然的な存在となって、降りてきたとは考えていなかったこと」。
世俗的な見方で、彼女はイエスを庭師と間違えたのです。

あなたがクリスチャンであり、キリストが十字架にかけられて死んだ後も生き続けたと信じているなら、そして、あなた自身の教典が真実であると承認するなら、あなたにはイエスの物語が復活ではなく、輪廻転生に関係したものであると認める以外のオプションがないことになります。
イエスの魂は、彼の以前の肉体には戻らなかったのです。
イエスの魂は、まったく異なった肉体に宿ったのです。

今、こうして、明らかな形で、このことが言及されるまで、なぜ、誰一人とし、イエスの生まれ変わりについて言及することがなかったのか、自分自身に問う必要があります。
それは、洗脳がゆえのことだと言うつもりですか?

何十億人もの人々が、生まれたときから、頭の中に福音が叩き込まれてきました。

誰一人として、キリスト教の「イエス復活」の信念について、その中心的な部分に挑戦したことはありませんでした。
キリスト教は、実際に、この福音書の件で、反駁の余地がないほど、論破されています。

キリスト教は歴史上、もっとも大きな詐欺ですが、「復活」というよりむしろ「輪廻転生」であることの真実をオープンに話しているので、誰も騙そうとは思わないでしょう。これは注目すべきことです。
Davidic line-ダヴィデの家の血筋
Desposyni(ギリシャ語の意味。または、長、支配者に属する)は、イエスの血縁者について説明している用語です。
イエスには、多くの兄弟(姉妹)がいて、4人の子供たちもいたので、数年の期間は大きな血縁者のグループになったのです。それを
Desposyniと言うようになったのです。イエスは、カナ(地名)でマグダラのマリアと結婚式を挙げました。イエスが磔刑に処せられるまでに、マリアは最初の娘であるサラ(Sarah)を身ごもりました。マグダラのマリアは、イエス(生まれ変わった姿の)、アリマタヤのヨセフ(Joseph of Arimathea=イエスの兄弟)、 マーサ(Martha=マリアの姉妹)ラザロ(Lazarus=マリアの兄弟)サロメ(Salome=(イエスの姉妹)ヨアンナ(Joanna =イエスの姉妹)マリア (Mary=イエスの姉妹) 、そしてマリア(Mary=イエスの母親).を伴ってフランスへ行きました。

端的に言えば、フランスに行ったグループは、イエス夫婦、イエスとマグダラのマリアの2家族の人々でした。

フランスで、マリアとイエスは、息子ヨシュア(Yehoshua)、もうひとりの娘タマル(Tamar)、そして、二番目の息子ヨセフ(Joseph=Yosef)を授かりました。

(生まれ変わった)イエスとともにフランスに行った人たち全員に、イエスが教えた秘密は、「自分は再び起き上がるだろうと予言したとき、それは輪廻転生を通して生まれ変わることを意味したのだ」ということだったのです。
(しかし、通常、生まれ変わりは大人にではなく、赤ん坊として生まれることで起こります)

イエスは、輪廻転生のことを言うのに、「復活」という言葉を使う以外に選択肢がなかったことを、公に説明したのです。
その理由は、この教えが、まさにユダヤ教の教えそのものであったため、このことを異邦人のギリシャ人や、もともと輪廻転生の概念を持っていた東方主義に教えることは、自殺行為に等しいとイエスが判断したからです。

私たちが、前の記事でご説明したように、イエスの原案は、自分が十字架にかけれられて死んだ後、墓から生き返る、という「見せ掛け」を演出することでした。

確実に続いていた宗教の狂騒状態の中にあって、ローマ人は、とてつもなく大きな、誰も止められないほどの大衆暴動によって、ユダヤから追い出されることになり、彼は、ユダヤの国から永遠に離れることになるでしょう。(イエスは天国に上って行ったと主張したことでしょう)
そして、イエスの兄弟である
ジェームズ(James)がダヴィデ家の血筋を引く王の役割を引き受けることになるだろう。(このような原案をイエスは描いていたのです)。

時間が経つとともに、それが有利であると考えられるのであれば、輪廻転生という新しい考え方は、やがてイスラエルの王に紹介されることになるでしょう。さもなくば、エリートの間の教えとして残るでしょう。

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有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の、この部分を見てください。
イエス・キリストの左側にいる人物について、4つの説があります。
1)まず、ヨハネの「the Beloved Disciple」(主の愛された弟子)という普通の説があります。2)それは、マグダラのマリア、イエスの妻です。これを「ダン・ブラウン説」と言います。3)マグダラのマリアと兄弟のラザロとを合成して暗号化したものとして描かれた「主の愛された弟子」。4)それは、イエスの死後、生まれ変わったという若者である、という説。
この若者と、イエスが「同じもの」であり、「違うもの」である、という考え方は、彼らの衣服が同一のものである、という事実に暗号化されています。

この絵の中で、イエスは赤を着ていますが、体の片方は青色を着ています。
そして、もうひとりのイエス(中央のイエスの左側の)は青を着ていますが、体の片方には赤を着ています。
すなわち、この二人は、もう一方を互いに補完しあっている関係になっているのです。
一人の中に二人いる(二人で一人)…

ダ・ヴィンチは、つまり、イエスが墓から復活したのではなく、生まれ変わったことを絵として見せるように提示しているのです。
あなたは、上の4つの説のうち、どの説を取りますか?
記事はここまで。



「復活」について


この元記事のイエス・キリストの「復活」の記述部分に関しては割愛していません。
また、可能な限り直訳しています。

再度、お断りしておきますが、この記事は、バーバリアン・イルミナティが書いたものです。
バーバリアン・イルミナティは、ローマカトリック教会が、事実を捻じ曲げ、自分たちを弾圧してきたとして「敵」と捉えているのです。
その「宿敵」も、バーバリアン・イルミナティからすれば、法王の一連の謝罪によって「自ら墓穴を掘ってしまった」ということで、形骸化の一途をたどっていると見ているのです。
しかし、いまだ両者の間では、小競り合いが続いています。(バチカンとの情報戦のことです)

なぜ、管理人が、この記事を取り上げたのか---
それは、やはり「復活」と「輪廻」ということです。

これは管理人の個人的なことなので差し控えますが、「輪廻」を信じざるをえないようなことが、いくつか起こったからです。
といって、このブログでも再三、書いているように、まったくその方面には関心を持たないようにしています。今でも、そうです。

ただ、「復活」というのが、どうも理屈に合わない。「輪廻」であれば、ツジツマがピタッと合うのに、と常々考えていたからです。
また、この「復活」という考え方を、はっきりさせておかないと「大変なことになる」という心配もありました。
それは
ラプチャーです。ラプチャーが何か、については既に書いています。

福音派の多くの人たちは、ラプチャーを信じているようです。しかし、「それが本当にやってくるかは分からない」といっているのです。
そして、「そのときがくればわかること」…。
なんと、お気楽な態度でしょう。

どうしてキリスト教は、ここまで分断、腐敗してしまったのでしょう。
内部にサタニストが侵入してきたから?
そればかりではないでしょう。
聖職者たちが、探求する心を忘れて「怠け者」になってしまったからに他なりません。その心の間隙を狙って、それこそサタンが入り込んでしまったのでは?
それを疑ってみる真摯さが残っていますか?

ラプチャーを解明するためにも、「復活」の秘密を解き明かし、分かる言葉で説明することこそ焦眉の急といえるでしょう。

この記事では、「復活」に関する記述部分の原文が記載されています。
これを「生まれ変わりでなく、墓から復活したのだ」と主張するには、あまりに手ごわい記述です。
聖職者は、当然のこととして、このことは、やはり解明しなければならないわけです。
「最後の晩餐」

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」。

ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」によって、俄然、注目度が高くなりました。
この絵の中央に座しているイエスの左側にいる人物が問題の焦点となっています。
ネット上を少し調べてみましたが、これは!と納得できる解釈は皆無でした。
「最初に結果ありき」の論説が展開されているだけですから、客観性・論理性に欠けたものばかりです。

一般には、上に列挙したうちの
1)=ヨハネ説が通説となっているようですが、あまりに女性的な容貌で描かれているため、マグダラのマリアではないか、という説が、特に海外では根強いようです。
その他にも諸説紛々です。

クリスチャンの人たちにとっては、これは絶対に受け入れられないことでしょう。積み上げてきた信仰を否定されることにもなるかもしれないからです。

ダン・ブラウンの小説にあるように、「イエスが妻を娶っていた?」。それに子供もいた、ということになると、「冒涜」と一蹴したくもなるでしょう。「これでは親鸞と同じではないか」と。
もちろん、私も「ダ・ヴィンチ・コード」は観ています。
「一つの説」。それ以上の感慨もありません。

それより、ダン・ブラウンの小説が世界中で4000万部以上も売れ、今でも売れ続けている、という現象のほうに興味が湧いてきます。世界は、いったい何を求めているのか? 「真実」か、それとも、「さらなる虚構」か?
とても不思議な現象です。

イエスが妻を娶っていたかどうか、については、実は管理人の興味の対象外なのです。
キリスト教の教義についても同様です。
肝心なことは、「なぜ、イエスが妻を娶っていたとしたら、上を下への大騒動になるのか」ということなのです。
聖書が「偽りの書」ということになってしまうから? だから、イエスに対する「冒涜」は許されない、と。
これでは、まさしく「暴虐」というしかないでしょう。

「絶対」ということは、あり得ません。
聖書の解釈が重ねられ続けていくうちに、改ざんされていったことはクリスチャン自身が認めています。
あくまで「復活」であり、断じて「輪廻」ではない、と言う人がいれば、マグダラのマリア、十二使途が、イエスを認められなかった、という記述部分も改ざんである、ということになリますから、なぜ、そんな聖書を使っているのか。著作権でガチガチに保護されてしまっているから?
苦しい言い訳です。

もし、万一、この記述部分が真実であれば---それこそイエスに対する冒涜ということになりませんか?
イエスの実像が大分違ったものだったとしたら、すぐさま、気移りしますか? アイドルに対すると同じように。
万一、ということがありうる、という感性は信仰者には大切なことです。

何より気がかりなこと--それは、イエスに妻がいたということが、信仰者にとってダメージとなるのか、ということです。「それでも、私は神の子イエス・キリストを信じる」では、なぜ駄目なのか。
誰も、その信仰を邪魔しないでしょうから。

このように信仰者たちは、いつから条件反射的に「他を排斥する態度」を平然と取るようになってしまったのでしょうか。
もし、これが偽説を借りた「罠」であるのなら、むしろ格好のチャンスと捉えられないのでしょうか。
その矛盾を看破し、キリスト教の説を、一層強化するための。

私が問いたいこと。それは、「本物の信仰が、そこにありますか」ということだけです。





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